2015年12月21日月曜日

ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』読書会 第三十回

読書会のお知らせです。

日時:12月25日(金曜日) 18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』
(財津理訳、河出書房新社、2012年)
範囲:第二部第六章「見通しと概念」247-258?頁
担当:大久保

さて、読書会は第六章の終わりに差し掛かってきました。
今回の範囲では、まず、オピニオンに対するプラトンと
フッサールの現象学の態度が問題になります。
とりわけ、両者が直面したアポリア、すなわち、
オピニオンの内在的次元を維持しようとしながらも、
最終的に超越を導入せざるを得なかったというアポリアが
問題とされます。

そのあと、ファンクションと概念をめぐって、
バディウが大きく取り上げられます。
同時代の哲学者を取り上げるのはD&Gには珍しいことで、
とても興味深いのですが、
果たしてレジュメでバディウをうまく料理できますかどうか...。

来年初めまで第六章の読解は続きそうです。
読解が進むに連れて本書における芸術の位置づけが
とても重要なことがわかってきたので、
第七章の芸術の章が今から楽しみです。


2015年11月10日火曜日

ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』読書会 第二十九回

読書会のお知らせです。

日時:11月13日(金曜日) 18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』
(財津理訳、河出書房新社、2012年)
範囲:第二部第六章「見通しと概念」238-?頁
担当:大久保

今回は第六章の中盤戦になります。
実は、第五章終わりのレジュメがまだ完成していませんが、
果たして次回はできますでしょうか...。

前回までで明らかになったのは、
論理学のファンクションである命題が
見通しProspectであり、再認のひとつの形式にすぎず、
D&Gに言わせれば、「概念を殺す」ものだということでした。

今回の範囲は、カントやフッサールの超越論哲学への批判が
主なテーマです。
D&Gによれば、超越論的主観は体験を「大地」とし
その参照項referenceと位置づけることで、一種の超越を行い、
すべてを主観に従属させます。
また、体験のファンクションとしてオピニオンが分析されます。
デモクラシーに不可欠であるオピニオンが、
実はマジョリティーへの意志にほかならないと批判され、
現代のデモクラシーへの苛烈な批判がしばし展開されます。

年内でなんとか第六章を終えることができるかもしれません。
来年はいよいよ芸術を扱う第七章に入れそうです。


2015/11/15 追記

読書会での議論を少し紹介しておきます。

まず、カントやフッサールの超越論哲学が
主観の超越の行為を暗に含み、
経験の領野を主観に従属させるものだという
D&Gの批判について、「そもそも主観なしで
超越論は可能なのか?」ということが問題となりました。

D&Gは超越する主観なしに内在平面だけで事が運ぶように描きますが、
その場合、その平面を統合する機能は何が担うのか。
これは、おそらくD&Gやドゥルーズを読むひとならばつきあたる問題で、
とてもすぐに答えが出るものではない問いでしょう。
会では、前個体性や非人称性の概念、
また、スピノザ的な「世界=神」との関連などが話題になりました。

次に、オピニオン概念について、その両義性が議論の焦点になりました。
今回の範囲では、オピニオンは、主体の知覚-感情にもとづきながら、
結局のところ「マジョリティーの意志」にほかならないと断罪されています。
しかしながら、別の箇所では、賢者の所有する「知恵」とは異なる、
すぐれて哲学的なものとしてオピニオンは導入されてもいます。
このような両義性をどのように理解すべきか。

ここでひとつ補助線となったのが、アーレントの議論です。
最近参加してくださっている乙部さんが紹介してくれました。
アーレントにおいても真理とオピニオンのあいだに緊張関係がある。
人々の複数性を前提とする政治の世界においては、
哲学のように唯一の真理を措定するわけにはいかず、
経験的なオピニオンにとどまるべきだ、という議論です。
したがって、アーレントの場合には、オピニオン間の調整の問題を考えるために、
カントの『判断力批判』が参照されることになる
(『判断力批判』に対するアーレントとドゥルーズとの「読み」の違いも
話題になりました)。

オピニオンを捉える枠組みが似ていながら
D&Gとアーレントとでは進もうとするベクトルが反対に見える。
しかし、両者それぞれに両義性があるのでは、という議論になりました。

また、D&Gはこのオピニオンの議論でローティやハーバーマスなどを
批判しているように読めますが、
その批判はどこまで有効なのかといったことも話題になりました。
知覚-感情とは切断されたレベルでハーバーマスは議論を立てているのではないか、
しかし、D&Gはそのレベルまでも射程に入れているのではないか、等々。

いずれにしても、オピニオンについては次の章でも芸術との関連で
論じられることになるので、最終的な結論はそこまで持ち越しとなりそうです。

2015年10月9日金曜日

ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』読書会 第二十八回

読書会のお知らせです。

日時:10月16日(金曜日) 18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』
(財津理訳、河出書房新社、2012年)
範囲:第二部第六章「見通しと概念」230-?頁
担当:大久保

今回は第六章の続きです。
ただ、前回第五章末尾のレジュメが間に合わなかったので、
その部分を軽くまず振り返りたいと思います。
そのあとで第六章の読解に戻ります。

前回は予想通り論理学の用語やゲーデルの定理に躓いて、
なかなか読み進めることができませんでした。
今回は前回の議論をふまえたうえで進めたいと思います。

今回の範囲では、まず、論理学の命題が見通しProspectであり、
真なるものの再認に他ならないとされます。
つまり、すでに構成されている事実(物の状態)を
改めて認めることが論理学の命題の働きだというわけです。

しかし、D&Gによれば、思考の本来の働きは、
そうした事実から潜在的なレベルに遡行することにあります。
今ある現実を成立させている、思考と存在の相即した<思考=自然>を
引き出すこと。

また、D&Gの批判は超越論哲学にも向けられます。
超越論哲学は事実ではなく主観の体験を拠りどころにし、
その「見通し」は趣味判断であるオピニオンであるとされます。
しかし、超越論的主観という一種の超越にすべてを従属させる
超越論哲学にも、やはり思考の無限運動が欠けていることになるでしょう。

今回はこのあたりの議論まで読み進めることができないかもしれませんが、
今後の「見通し」のために簡単にまとめておきました。
これを土台にしてみなさんと議論できれば面白いと思います。

2015年9月15日火曜日

ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』読書会 第二十七回

直前になりますが、読書会のお知らせです。

日時:9月18日(金曜日) 18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』
(財津理訳、河出書房新社、2012年)
範囲:第二部第五章「ファンクティヴと概念」 224-226頁
      第六章「見通しと概念」227-?頁
担当:大久保

今回から本格的に第六章に入ります。

まず、第五章の末尾を読みながら
これまでの議論を振り返りたいと思います。

次に、第六章「見通しと概念」の冒頭では、
論理学の「概念」が指示=参照référenceを前提としたものであり、
D&Gの考える概念ではなく、
むしろ概念をファンクションに還元するものであることが
主張されます。
ただ、主張は明確でも、議論自体はかなり難しいので、
ゆっくりと読み進めたいと思います。
このような議論はドゥルーズでは『意味の論理学』以来のものです。
参考になりそうな論文があったので、紹介しておきます
(PDFです)。

2015年7月6日月曜日

ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』読書会 第二十六回

読書会のお知らせです。

日時:7月10日(金曜日) 18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』
範囲:第二部第五章「ファンクティヴと概念」 215-226頁
      第六章「見通しと概念」227-?頁
担当:大久保

今回で第五章を読み終わり、第六章に入れそうです。
第五章に負けず劣らず、第六章もハードそうですが、
がんばんって読み進めていきましょう。

今回の範囲では、前回までの範囲に引き続き、
まず、哲学と科学の差異が問題になります。
第三の差異、言表行為の違いとして、
科学における記述の観点である部分観測者が、
哲学における概念的人物と比較されます。
そして、どちらもが結局のところ、
知覚やアフェクション(感情・情態)に関わるものとされ、
これらが規定される芸術の章まで
最終的な解決はお預けとなるようです。

第六章「見通しと概念」では、はじめ、
論理学や分析哲学でいう「概念」が、
D&Gにとってのファンクションであり
哲学の概念ではないということが
命題や「概念」の分析を通じて主張されます。
『意味の論理学』での議論を反復しながら、
論理学や分析哲学との対決をとおして
D&Gの概念を改めて規定していくようです。

彼らにとっての哲学の定義が「概念の創造」であることを
考えると、重要な範囲になりそうです。
かなり難解な箇所ですが、一緒に読んでいく中で
解きほぐしていきたいと思います。

2015年6月18日木曜日

ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』読書会 第二十五回

直前となり恐縮ですが、
読書会のお知らせです。

日時:6月19日(金曜日) 18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』
範囲:第二部第五章「ファンクティヴと概念」 209-217?頁
担当:大久保

二ヶ月ぶりの読書会になります。
これまでの内容をかなり忘れている部分も
あると思うので、今回はゆっくり読み進めたいと思います。

前回までの範囲では、哲学と科学の第一の差異、
すなわち、哲学が内在平面によって無限を保持するのに対し、
科学は無限に限界を課し、無限速度を減速させて、
準拠reference平面を成立させるということが語られ、
この準拠平面において、物の状態état de choses [state of affairs]と
物、体corpsがそれぞれ異なるものとして規定されました。

今回の範囲では、まず、準拠平面の複数性、科学の複数性が、
トマス・クーンの理論と重ね合わされ、パラダイム的と呼ばれます。

次に、哲学と科学の第二の差異として、
概念とファンクティヴの差異が問題となります。
すなわち、概念において合成要素が切り離せないのに対し、
ファンクティヴにおいては各変数は独立している。

最後の第三の差異では、言表行為の違いが挙げられますが、
今回はおそらくそのとば口にしかたどりつけなそうです。


[以下、2015.06.21 追記]

今回から読書会で議論になったことを
備忘録的に書き留めておきます。

まず、この第五章「ファンクティヴと概念」の位置づけの問題。
これは主に僕が問いかけた問題でした。
これ以前の章では、D&Gが考える「哲学」像が展開され、
彼らの「敵」もある程度明確だったのに比べて、
D&Gの考える「科学」を扱うこの章は、
「なぜ書かれたのか?」「誰が『敵』なのか?」ということが
今ひとつ明確ではありません。

議論のなかでひとつ有力な答えとして見えてきたのが、
「D&Gの考える『哲学』をネガティブに規定している」というもの。
つまり、彼らの特異な「哲学」像を明確にするために、
それと誤解されやすいもの、
あるいは、普通ならばそちらこそ「哲学」と考えられているものを、
「科学」と呼ぶためだろう、ということです。
たとえば、D&Gの「概念」は、
カントの区分ならばむしろ「理念」に近く、
彼らのいう「ファンクティヴ」こそカントでいう「概念」に当たります。

したがって、第五章は、現代の「科学」のあり方に批判的なことを
述べるためというよりは、
あくまでもD&Gにとっての「哲学」の特徴
(理念性、無限、出来事、直観的、等々)をはっきりさせることが
目的なのかもしれません。

次に、本書では「実践」の問題圏はどう位置づけられるのかという問題。
これも以前から読書会で問われてきた問題ですが、
本書の哲学・科学・芸術という区分は、
古典的な真・善・美という区分と合致せず、
善の問題、すなわち実践や倫理の問題に位置が与えられていません。

表面的にはここから、ポスト・モダンの非政治性という紋切り型を
導き出すこともできそうですが、
本書のところどころに(特に第四章、第六章)強い政治的主張が
見られるように、ある種の実践的態度が
彼らの「哲学」には最初から織りこまれているようにも見えます。

いずれにせよ、どちらの問いも、今後も継続的に
問題にしていく必要がありそうです。



2015年5月28日木曜日

赤松ネロさん PRIX ARS ELECTRONICA 2015でGolden Nica受賞!!

うれしいお知らせです。

以前このブログでもご紹介した、
読書会メンバーの赤松ネロさんの作品が、
PRIX ARS ELECTRONICA 2015のDigital Musics & Sound Art部門で
Golden Nica(大賞)を受賞しました!!

PRIX ARS ELECTRONICA 2015のHPはこちら

赤松さんによれば、
ARS ELECTRONICAはコンピュータやネットワークなどの
デジタルメディアを扱う「メディアアート」で
最も伝統あるコンペティションだということで、
同じDigital Musics & Sound Art 部門ではこれまで
刀根康尚や池田亮二も受賞しているとのこと。
授賞式と展示は9月にオーストリアのリンツで
行われるそうです。

これで赤松さんも巨匠の仲間入りでしょうか?
いずれにせよ、おめでとうございます!!

話題は変わって、このところ読書会は
お休みしていますが、そろそろ再開できそうです。
こちらもご期待ください。

2015年3月19日木曜日

ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』読書会 第二十四回

直前となり恐縮ですが、
読書会のお知らせです。

日時:3月20日(金曜日) 18時30分-21時
http://www.amazon.co.jp/dp/4309463754/ref=cm_sw_r_tw_dp_-uXgrb180PA3V
範囲:第二部第五章「ファンクティヴと概念」 205-?頁
担当:大久保

前回は第5章の冒頭を読み、ドゥルーズの考える
「科学」の定義を見ていきました。
前回の範囲では、哲学が内在平面によって
無限を保持するのに対し、
科学は無限に限界を課し、無限速度を減速させて、
準拠reference平面を成立させるというのが、
両者の大きな違いでした。

今回は、前回のカントールの無限論を簡単に復習したのち、
引き続きドゥルーズの考える哲学と科学の差異を
見ていきます。
今回は他に三つの差異が挙げられるようです。

以前の著作と対応させるならば、
出来事の次元にあったものが哲学の管轄、
出来事の実現したものの次元が科学の管轄、
といった振り分けになりそうですが、
詳しくは読み進める中で明らかにできればと思います。

2015年2月13日金曜日

ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』読書会 第二十三回

読書会のお知らせです。
*読書会にご参加いただくには事前に登録が必要です。

日時:2月20日(金曜日) 18時30分-21時
場所: 原宿某所 
(財津理訳、河出書房新社、2012年)
範囲:第二部第五章「ファンクティヴと概念」199-?頁
担当:大久保

昨年12月には読書会を行なっていましたが、
11月と今年1月は諸事情でお休みしていました。
いろいろと僕自身が忙しくなっており、
今年も読書会をお休みさせていただくことが
多くなるかもしれませんが、
最低限『哲学とは何か』は読み終わりたいと思っています。
どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

滞っているレジュメの公開も近日中には
できると思いますので、もうしばらくお待ち下さい。

前回からようやく第五章に入りました。
今回は、第四章の末尾を軽く振り返ったのち、
第五章「ファンクティヴと概念」を最初から読み進めていきます。

無限の速度をもつカオスと対峙して、
哲学が、同じく無限の速度の運動を許す内在平面を
用いるのに対して、科学は、この速度を限定することで
カオスを飼い慣らそうとします。

今回の範囲は、無限の問題を扱っていて
かなり難しいですが、ドゥルーズ哲学の核とも
言えるところですので、明解に整理するよう
心がけたいと思います。