2015年6月18日木曜日

ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』読書会 第二十五回

直前となり恐縮ですが、
読書会のお知らせです。

日時:6月19日(金曜日) 18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』
範囲:第二部第五章「ファンクティヴと概念」 209-217?頁
担当:大久保

二ヶ月ぶりの読書会になります。
これまでの内容をかなり忘れている部分も
あると思うので、今回はゆっくり読み進めたいと思います。

前回までの範囲では、哲学と科学の第一の差異、
すなわち、哲学が内在平面によって無限を保持するのに対し、
科学は無限に限界を課し、無限速度を減速させて、
準拠reference平面を成立させるということが語られ、
この準拠平面において、物の状態état de choses [state of affairs]と
物、体corpsがそれぞれ異なるものとして規定されました。

今回の範囲では、まず、準拠平面の複数性、科学の複数性が、
トマス・クーンの理論と重ね合わされ、パラダイム的と呼ばれます。

次に、哲学と科学の第二の差異として、
概念とファンクティヴの差異が問題となります。
すなわち、概念において合成要素が切り離せないのに対し、
ファンクティヴにおいては各変数は独立している。

最後の第三の差異では、言表行為の違いが挙げられますが、
今回はおそらくそのとば口にしかたどりつけなそうです。


[以下、2015.06.21 追記]

今回から読書会で議論になったことを
備忘録的に書き留めておきます。

まず、この第五章「ファンクティヴと概念」の位置づけの問題。
これは主に僕が問いかけた問題でした。
これ以前の章では、D&Gが考える「哲学」像が展開され、
彼らの「敵」もある程度明確だったのに比べて、
D&Gの考える「科学」を扱うこの章は、
「なぜ書かれたのか?」「誰が『敵』なのか?」ということが
今ひとつ明確ではありません。

議論のなかでひとつ有力な答えとして見えてきたのが、
「D&Gの考える『哲学』をネガティブに規定している」というもの。
つまり、彼らの特異な「哲学」像を明確にするために、
それと誤解されやすいもの、
あるいは、普通ならばそちらこそ「哲学」と考えられているものを、
「科学」と呼ぶためだろう、ということです。
たとえば、D&Gの「概念」は、
カントの区分ならばむしろ「理念」に近く、
彼らのいう「ファンクティヴ」こそカントでいう「概念」に当たります。

したがって、第五章は、現代の「科学」のあり方に批判的なことを
述べるためというよりは、
あくまでもD&Gにとっての「哲学」の特徴
(理念性、無限、出来事、直観的、等々)をはっきりさせることが
目的なのかもしれません。

次に、本書では「実践」の問題圏はどう位置づけられるのかという問題。
これも以前から読書会で問われてきた問題ですが、
本書の哲学・科学・芸術という区分は、
古典的な真・善・美という区分と合致せず、
善の問題、すなわち実践や倫理の問題に位置が与えられていません。

表面的にはここから、ポスト・モダンの非政治性という紋切り型を
導き出すこともできそうですが、
本書のところどころに(特に第四章、第六章)強い政治的主張が
見られるように、ある種の実践的態度が
彼らの「哲学」には最初から織りこまれているようにも見えます。

いずれにせよ、どちらの問いも、今後も継続的に
問題にしていく必要がありそうです。