2015年11月10日火曜日

ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』読書会 第二十九回

読書会のお知らせです。

日時:11月13日(金曜日) 18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』
(財津理訳、河出書房新社、2012年)
範囲:第二部第六章「見通しと概念」238-?頁
担当:大久保

今回は第六章の中盤戦になります。
実は、第五章終わりのレジュメがまだ完成していませんが、
果たして次回はできますでしょうか...。

前回までで明らかになったのは、
論理学のファンクションである命題が
見通しProspectであり、再認のひとつの形式にすぎず、
D&Gに言わせれば、「概念を殺す」ものだということでした。

今回の範囲は、カントやフッサールの超越論哲学への批判が
主なテーマです。
D&Gによれば、超越論的主観は体験を「大地」とし
その参照項referenceと位置づけることで、一種の超越を行い、
すべてを主観に従属させます。
また、体験のファンクションとしてオピニオンが分析されます。
デモクラシーに不可欠であるオピニオンが、
実はマジョリティーへの意志にほかならないと批判され、
現代のデモクラシーへの苛烈な批判がしばし展開されます。

年内でなんとか第六章を終えることができるかもしれません。
来年はいよいよ芸術を扱う第七章に入れそうです。


2015/11/15 追記

読書会での議論を少し紹介しておきます。

まず、カントやフッサールの超越論哲学が
主観の超越の行為を暗に含み、
経験の領野を主観に従属させるものだという
D&Gの批判について、「そもそも主観なしで
超越論は可能なのか?」ということが問題となりました。

D&Gは超越する主観なしに内在平面だけで事が運ぶように描きますが、
その場合、その平面を統合する機能は何が担うのか。
これは、おそらくD&Gやドゥルーズを読むひとならばつきあたる問題で、
とてもすぐに答えが出るものではない問いでしょう。
会では、前個体性や非人称性の概念、
また、スピノザ的な「世界=神」との関連などが話題になりました。

次に、オピニオン概念について、その両義性が議論の焦点になりました。
今回の範囲では、オピニオンは、主体の知覚-感情にもとづきながら、
結局のところ「マジョリティーの意志」にほかならないと断罪されています。
しかしながら、別の箇所では、賢者の所有する「知恵」とは異なる、
すぐれて哲学的なものとしてオピニオンは導入されてもいます。
このような両義性をどのように理解すべきか。

ここでひとつ補助線となったのが、アーレントの議論です。
最近参加してくださっている乙部さんが紹介してくれました。
アーレントにおいても真理とオピニオンのあいだに緊張関係がある。
人々の複数性を前提とする政治の世界においては、
哲学のように唯一の真理を措定するわけにはいかず、
経験的なオピニオンにとどまるべきだ、という議論です。
したがって、アーレントの場合には、オピニオン間の調整の問題を考えるために、
カントの『判断力批判』が参照されることになる
(『判断力批判』に対するアーレントとドゥルーズとの「読み」の違いも
話題になりました)。

オピニオンを捉える枠組みが似ていながら
D&Gとアーレントとでは進もうとするベクトルが反対に見える。
しかし、両者それぞれに両義性があるのでは、という議論になりました。

また、D&Gはこのオピニオンの議論でローティやハーバーマスなどを
批判しているように読めますが、
その批判はどこまで有効なのかといったことも話題になりました。
知覚-感情とは切断されたレベルでハーバーマスは議論を立てているのではないか、
しかし、D&Gはそのレベルまでも射程に入れているのではないか、等々。

いずれにしても、オピニオンについては次の章でも芸術との関連で
論じられることになるので、最終的な結論はそこまで持ち越しとなりそうです。