2017年12月21日木曜日

『シネマ』読書会 第11回

読書会&忘年会のお知らせです。

日時:12月27日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第5章「知覚イメージ」第三節 148–153頁
   第6章「感情イメージ」第一節 154–161頁
担当: 乙部

今回は忘年会もあるため少し早めに終わる予定です。
範囲は、第5章「知覚イメージ」第三節の最後の部分と
第6章「感情イメージ」になります。

第5章第三節の後半では、引き続きヴェルトフの理論や作品に依拠しながら、
人間の知覚を越えたイメージ、物質そのままのイメージの分析が進められます。

「間」によってイメージのアジャンスマンを作り出すモンタージュだけでなく、
フォトグラム(フィルムのコマ)自体にさまざまな操作を加えることで、
知覚の発生的要素まで遡ろうとするのが、ヴェルトフの手法であると言われます。
フランス戦前派が水という液状の知覚に留まったとしたら、
ヴェルトフとアメリカの実験映画は、分子がうごめく気体上の知覚にまで達したのだと
対比されます。

第6章「感情イメージ」の第一節では、まず、
感情イメージ=クローズアップ=顔、というテーゼが提示され、
これをもとに議論が進められていきます。
つまり、物のクローズアップであっても、それは顔であり、
感情イメージであるいうのがドゥルーズのテーゼです。

第一節では、感情イメージや顔の二つの極が析出されます。
やはりここでもベルクソンの議論を土台となります。
運動の作用と反作用の行き交う身体のうちの一部が、
動かなくなることで受容器官となり、
一方で、受けた作用を反映=反省し、
他方で、失った運動は運動への傾向として、強度として、表現として、残されます。
こうした、反映=反省しかつ反映=反省される(réfléchissante et réfléchie)一性と、
強度的セリーという顔の二つの極が、
映画だけでなく絵画や哲学も参照されながら、詳しく特徴づけられます。
映画との関わりでは、第一節では、反映=反省する顔の例としてグリフィスが、
強度的セリーの例としてはエイゼンシュテインが、挙げられます。

グリフィスやエイゼンシュテインにおけるクローズアップを念頭に置きながら読むと、
わかりやすくなる範囲でしょう。
読書会でも彼らの作品を少しでも見ながら進められればと思います。

(以下、12月31日の追記です。大久保による会の振り返りです。)

ドゥルーズの語る「顔」が具体的にどのようなイメージなのか
ぼんやりとしかわからず、あまり議論が深まらなかったような気がします。
やはり参照されている映画を実際に見ることが大事だと個人的には思いました。

内容面では、上田さんが注目していた、
第6章第一節終わりに言及される「純粋な質」が
第二節以降大事になってくるかもしれません。
このあと、この「質」と「力」が情動の(感情ではなく)二つの側面として
焦点を当てられていくことになります。

また、大きなところでは、結局ドゥルーズはこの『シネマ』で
何を目指しているのかという乙部さんの問いも重要だと思いました。
ベルクソンの哲学を解釈しながら映画のイメージを分類することに、
どのような意義があるのか。
今後も念頭に置いておくべき問いだと思います。

2017年11月16日木曜日

『シネマ』読書会 第10回

読書会のお知らせです。

日時:11月22日(水曜日)19時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第5章「知覚イメージ」第二・三節 138–153頁?
担当: エリス/上田

今回は第5章「知覚イメージ」の第二節と第三節が範囲になります。

第一節では、主観イメージでも客観イメージでもない
「半主観」のイメージが問題になっていました。
第二節でも、同じく、主観イメージから、第4章で描かれたような
イメージの相互作用の世界、汎イメージの世界への移行が問題となりますが、
ここでは、フランス戦前派の作品を参照しながら、
水の運動のイメージがそうした移行を可能にするものとして分析されます。

第三節では、主にヴェルトフの理論や作品に依拠しながら、
同様の移行を映画で実現する手法として、モンタージュが取り上げられます。
第4章では知覚を可能にするものとして記されていた「間 écart」
(刺激とそれへの反応のあいだの間)が、
ここではイメージとイメージとの「間」として読み替えられ、
イメージのアジャンスマン、イメージ同士の非共役的関係であるモンタージュが、
「半主観」的なカメラ・アイを可能にするものだと言われます。
さらには、エイゼンシュテインのモンタージュ理論と対比しながら、
ヴェルトフのモンタージュが知覚の発生的要素にまで到達しているとされます。

この第三節は、ドゥルーズやドゥルーズ&ガタリのさまざまな概念装置が
一挙に導入されているだけでなく、
下巻につながる論点がすでにいろいろと提出されている
(たとえば、運動イメージのアジャンスマンと言表行為のアジャンスマンの関係)ので、
じっくり読み進めたいところですね。
さまざまな実験映画も参照されているので、できればそれも見ておきたいところです
(単純に楽しそうです)。


(以下、11月26日の追記です。報告者だったエリスさんによる会の振り返りです)

議論も活発に進行し、乙部さんの(いつも通り)わかりやすすぎる解説のもとに
テクストの理解を深めることができたと思います。

今回の争点としては、
・p.143~の「映画眼」においては、「動くカメラ」も重要なのか、
それともここではおもに「モンタージュ」の話だけをしているのか

・p.146 「アジャンスマン」という言葉の意味、解釈について
(unit的なものか?
また、機械状アジャンスマンと言表行為の集団的アジャンスマンの関係は?)

・知覚の発生論的定義における「微分」の解釈
(そこから現実という曲線が生産されるところの微分)
などが挙がったと思います。

p.148の2段落目〜は軽く読んだだけなので、
次回はその復習から始めるのがいいかと思います。

2017年10月19日木曜日

『シネマ』読書会 第9回

読書会のお知らせです。

日時:10月25日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第5章「知覚イメージ」第一節
担当: 127-132頁 乙部
    133-137頁 谷口

今回から第5章「知覚イメージ」に入ります。

振り返っておくと、第4章では、ベルクソンの哲学を注釈しながら、
知覚イメージ・行動イメージ・感情イメージが導出されました。
世界がイメージ(いわゆる「物」のことだと思ってもらってもかまわないでしょう)から
なると仮定した上で、
生物のような特殊なイメージが、みずからの関心や必要に応じて、
受ける刺激を限定する(「引き算する」)、その作用のことが
「知覚イメージ」と呼ばれていました。

これに対して、今回の第5章では、映画から出発して、
まず、主観イメージと客観イメージが分けられるのかという問いが立てられます。
そして、パゾリーニやバフチンの「自由間接話法」の概念を援用しながら、
主観でも客観でもない、いわば「カメラ・アイ」でしか捉えられない
「半主観」のステータスが、アントニオーニやゴダール、ロメールを参照しながら
描き出されます。
この「半主観」はおそらく第4章でいう「光のイメージ」でしょう
(つまり、第4章と第5章では導出の方向が反対になっていますね)。

第5章第2節では、
主観からこのような「半主観」あるいは「光のイメージ」への移行の問題が、
フランス戦前派の水のイメージをもとにして論じられることになります。

今回の範囲は、いろいろな巨匠の作品が参照されていますので、
できるだけ見ながら進められたらいいですね。
特に「半主観」がどんな感じなのかは共有したいところです。

2017年9月22日金曜日

『シネマ』読書会 第8回

読書会のお知らせです。

日時:9月27日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第4章「運動イメージとその三つの種類」第3節
担当と範囲: 120-124頁 谷口
       124-126頁 乙部

前回、第4章の第二節まで読み終わりました。
第4章での、ベルクソンを参照した哲学的議論は一通り見たことになると思います。
今回扱う第3節は、前回の議論をふまえ、
映画における知覚イメージ、行動イメージ、感情イメージがどのようなものか、
主にベケット『フィルム』を参照しながら、その概略が示されることになります。

参加する方は、ぜひベケット『フィルム』を見ていただけるとよいと思います
(YouTubeで見れます)。
短い映画ですし、ベケットの天才性が垣間見れる作品だと思います。

この第4章での議論を基礎にして、残りの『シネマ』第一巻の議論は進められます。
大事な論点については理解を共有できるようにしたいところですね。

(以下、10月2日の追記です。報告者だった乙部さんの振り返りを以下掲載します。)

さて、前回の読書会ですが、ぶじ盛況のもとに行われました。
当日はベケットの『フィルム』を改めて皆で鑑賞しつつ読解を進めました。
その際議論となったのは、
・ドゥルーズの『フィルム』解釈は、どこまで妥当な解釈といえるか?
・ドゥルーズが『フィルム』に見出すもの(あるいは、『フィルム』が示すもの)は、
知覚の消去であるのか、知覚されることの消去であるのか
・パースにとっての「記号」とは何か
といったことなどでしょうか。
二点目については、知覚の二重の準拠体制(邦訳113頁)との関係で考えてみると
有意義な論点かもしれません。


2017年8月27日日曜日

『シネマ』読書会 第7回

直近になりますが、読書会のお知らせです。

日時:8月30日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第4章「運動イメージとその三つの種類」101-126?頁
担当: 大久保

前回、第3章を少し無理矢理に読み終わりました。
個人的には、ドゥルーズの映画解釈に強引さを少なからず感じた範囲でした。
今回は、第4章をできれば一気に読んでしまいたいと思います。

以下、第4章の概略を紹介しておきます。

第4章の第一節では、ベルクソン『物質と記憶』を
現象学と対比しながら読むことを通して、
「汎イメージ論」とでもいうべき議論が展開されます。
物=イメージで構成される内在平面としての世界。
さらにはこの物=イメージが「光」とも言いかえられます。

第二節では、基本的には『物質と記憶』の議論を踏襲して、
物=イメージのこの内在平面のなかに知覚が位置づけられます。
すなわち、物の作用と反作用のあいだの「間」、
具体的には、生物における刺激の受容とそれへの反応とのあいだの「間」から、
知覚が導出され、さらには行動や感情もそれとの関連で性格づけられます。
そしてこれらが、知覚イメージ、行動イメージ、感情イメージと呼ばれることになります。

第三節では、ここまでもっぱら哲学として議論されてきた問題が、
映画の問題に接続されます。
具体的には、ベケットの映画作品『フィルム』を分析しながら、
映画における知覚イメージ、行動イメージ、感情イメージが規定されます。
さらには、あるパースペクティブで「全体」を切り取った内在平面の上で展開される
運動イメージとは異なり、ベルクソンにおける「想起」のように、
直接に「全体」や「時間」のイメージであるような「時間イメージ」の存在が
示唆されます。
この節の最後では、具体的な映画のシーンが
知覚イメージ、行動イメージ、感情イメージの例として参照されます。

こんなところでしょうか。
一回でこの章を読み終わるかちょっと自信がないですが、
できるかぎりがんばってみたいと思います。

2017年7月20日木曜日

『シネマ』読書会 第6回

読書会のお知らせです。

日時:7月24日(月曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第3章「モンタージュ」第3節
    第4章「運動イメージとその三つの種類」
担当: 78-80頁 乙部
    80-104?頁 大久保

前回、第5回は事情によりブログで告知できませんでしたが、
無事に開催されました。

今回でなんとか第3章を読み終わりたいと思います。
おそらく第3章第3節を読み切って時間切れだと思いますが、
可能ならば第4章の出だしぐらいまで行きたいと思います。

今回の範囲は、ドゥルーズの分類によれば、
4つの種類のモンタージュのうちの最後の二つ、
フランス戦前派とドイツ表現主義が分析の対象になります。

モンタージュの最初の二つ、アメリカ映画とソビエト映画が
有機的なモンタージュによって特徴づれられるのに対し、
フランス戦前派とドイツ表現主義は、非有機性によって規定されます。
ここで参照されるのが、カントの崇高の理論です
(後者二つのモンタージュが崇高で捉えられていることからすると、
テクストでは述べられてはいませんが、
前者二つのモンタージュをカントの「美」として捉えることは可能かもしれません。
そこでポイントとなるのは有機性=合目的性だと思いますが、
このあたりの話は、読書会で)。

カントの崇高が数学的と力学的に別れるように、
フランス戦前派が測定可能な運動の量の増大によって
精神的なものを示そうとするのに対して、
ドイツ表現主義は光の強度によって「全体」の表現を図ろうとします。
その他にも、時間の問題、あるいは、D&Gの「器官なき身体」を思わせる、
非有機性の問題など、興味深い論点はたくさんあるのですが、
どうしても図式的な理解になりやすい危険性があるので
できるだけ映像を見ながら読み進めていけたらと思っています。

2017年6月23日金曜日

ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』 レジュメ公開

お待たせしていた、ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』のレジュメ公開です。

記録を見てみると、2013年2月から2017年1月まで
なんと4年をかけて読んでたようです…。

文庫にすると薄い本ではありますが、
ドゥルーズ哲学の集大成という面もあってかなり密度が濃く、
正直、毎回レジュメ作りは大変でした。

扱ったのは、まず、河出文庫のこちらの新訳です。



原書は、2005年のReprise版ではなく、1991年の版を使っています。
正確には、現在出回っているこちらは、2013年の電子書籍用の版で、
2005年版が存在し(表紙がドゥルーズだけのモノクロ写真です)、
そちらのページ付けは1991年版と同じで、このレジュメはそちらに従っています。
この点だけお気をつけ下さい。

それぞれのレジュメにはまだいろいろと不備があり、
すべての章のレジュメもまだ揃っていませんが、
とりあえず今、揃っているところまで公開します。
更新は順次していきます。

以下、目次がレジュメへのリンクになっています。

序論 こうして結局、かの問は……

I 哲学
 1 ひとつの概念とは何か
 2 内在平面
 3 概念的人物
 4 哲学地理

II 哲学−−−科学、論理学、そして芸術
 5 ファンクティヴと概念
 6 見通しと概念
 7 被知覚態、変様態、そして概念

結論 カオスから脳へ

このレジュメたちが、これから本書を読む人たちにとって
道しるべとして役立つことを祈ってます。

2017年5月27日土曜日

『シネマ』読書会 第4回

読書会のお知らせです。

日時:5月30日(火曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第3章「モンタージュ」第2節
担当: 60-67頁 谷口
    68-74頁 乙部

僕のほうから、前回の範囲の振り返りと、
今回の範囲の予告を少しだけ。

前回の範囲のうち、まず第2章第3節では、
第1節と第2節でのフレームとショットの定義をふまえた上で、
「全体」(たとえば作品の表現する世界)を表現する運動イメージが
どのように獲得されるのかが問題とされました。
具体的には、カメラの動くショットとモンタージュとによって
運動イメージが得られるとされます。

カメラが固定されていた初期の時代では、運動はフレーム内の要素の動きでしかなく、
運動イメージそのものとは呼べなかったのに対して、
カメラが移動するショットと、ショットをつなぐモンタージュとによって
はじめて、画面外まで含めた「全体」を表現することが可能になると
ドゥルーズは言います。

ただ、映画の幼年期は、カメラの動きもつなぎも観客が気づかないような
(知覚不可能な)自然なものであり、その真の可能性は解放されておらず、
にせのつなぎ、つまり断絶を含んだモンタージュこそが、
「全体」へとつながる開きをもたらすと、第2章はまとめられました。

続いて第3章「モンタージュ」の第1節では、
まず、モンタージュはつなぎによる「全体」の規定であると定義されます。
つまり、一本の映画を通して「何かが変化する」とき(出来事)、
それはモンタージュの作り出す運動イメージによって
間接的にのみ把握されることになります。
この変化する「全体」、時間のイメージこそが
映画の理念であるとドゥルーズは位置付けます。

その上で、ドゥルーズはモンタージュの手法を4つに分類し、
最初に分析の対象となるのが、グリフィスでした。
グリフィスの映画は、並行モンタージュに見られるような二元性、
そしてその二元性から生まれる闘争、さらにその闘争の収束といった
有機的組織として分析されます。

そして今回の範囲、第3章第2節では、エイゼンシュテインを
はじめとするソビエトの弁証法的手法が、どのようにグリフィスを
乗り越えたのかが詳細に分析されます。
詳しくは発表者のお二人にお任せしますが、
簡潔に特徴を二つ挙げておくと、
グリフィスの平行的な二元性に対して、弁証法的なスパイラル、
また、対立する線を移行するときに現れるパトスが
エイゼンシュテインのモンタージュの特徴とされます。

こんなところでしょうか。
読解のお役に立てば幸いです。

2017年4月10日月曜日

『シネマ』読書会 第3回

読書会のお知らせです。

日時:4月17日(月曜日) 18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲と担当: 第2章 「フレームとショット」46-53頁 乙部
       第3章 「モンタージュ」 54-59頁 谷口

今回は第2章の第三節と、第3章の第一節を扱います。
〔今回の範囲の詳しい内容については随時更新していきます。〕

2017年3月18日土曜日

『シネマ』読書会 第2回

遅くなりましたが、読書会のお知らせです。

日時:3月21日(火曜日) 18時30分-20時30分
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲:第二章「フレームとショット、フレーミングとデクパージュ」 23-46頁?
担当: 大久保

今回は第二章を扱います。章全体を読み切るのは時間的に難しそうですが、
全三節のうち最初の二節はなんとか読みたいと思います。
また、今回の範囲ではかなりたくさんの映画が参照されているので、
できるかぎり見ながら読み進めたいと思います。
映像ソフトをお持ちの方は持ち寄ってもらえるとありがたいです。

第二章の第一節では、フレームcadreがいくつかの観点から
分類されます。このとき、まず、第一章でベルクソンを参照しながら
なされた区別、すなわち総体ensembleと全体toutの区別を前提として、
フレームは、要素が限定された総体(数学でいう集合)として
特徴づけられます。
そして、フレーム内の要素が多いのか少ないのか、
フレームが幾何学的に構成されているのか力学的に構成されているのか、
等々と分類されていきます。

第二節では、ショットplanが、フレーム内での諸要素の運動として
捉えられ、これが運動イメージと呼ばれることになります。
そして、ここでも第一章の先の区別が前提とされ、
運動は全体の変化の表現と捉えられます
(コップをかき混ぜる運動は、水から砂糖水へという全体の変化を表現している…)。
したがって、運動は、総体内の要素を動かすことによって
持続という全体を分割すると同時に、
それら要素を再結合することで、全体の変化を表現するという
二重の側面をもつと語られます。

第三節ではさまざまなショットのあり方
(カメラの運動、シークエンス・ショット)を分析しつつ、
そこからショットや運動の一性が導かれていきますが、
それは次回の読解範囲になるでしょうか。

テキストで参照されている名作たちをちょこちょこと見ながら、
読解を進めることにしましょう。

2017年2月24日金曜日

『シネマ』読書会 第1回

読書会のお知らせです。

日時:2月28日(火曜日) 18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
発表: 谷口惇「ドゥルーズ『シネマ』の文脈と前提」
範囲:序文 1-2頁
   第一章「運動に関する諸テーゼ: 第一のベルクソン注釈」 3-22頁
担当:大久保

今回からいよいよ『シネマ』の読解に入ります。
実は前回、『哲学とは何か』の最後の部分のレジュメを
作り終えることができなかったのですが、
これまでのレジュメすべてを近々公開するときに
合わせて作ることにしたいと思います。
どうぞご了承下さい。

今回は、『シネマ』本文の読解に入る前に、
前回から参加された谷口さんから、
『シネマ』という作品の歴史的文脈などをお話しいただきます。
映画批評をされている谷口さんに映画業界側からは
『シネマ』という本がどのように見えているのか語っていただくことで
(実際ドゥルーズは映画研究の文献をかなり参照しています)、
どうしても哲学に偏りがちな僕の読解を補ってもらおうと思います。

『シネマ』本体の読解は、まず序文で本書の目論見を確認します。
短いですが、本書がどのような立場で書かれたのかを
明確に示す、充実したテクストです。

次に第一章では、主にベルクソン『創造的進化』を読解しながら、
運動に関するベルクソンの三つのテーゼが検討されます。
一見、映画とはあまり関係なさそうに見える問題ですが、
本書全体を貫く運動イメージと時間イメージの概念が
分節化される箇所であり、非常に重要でしょう。
詳しくは読書会で見ていきますが、以下に概要を示しておきます。

第一のテーゼは、運動が通過した空間を再構成しても
運動にはならないというものです。
ベルクソンはこれを「映画的錯覚」と呼びますが、
ドゥルーズは、ベルクソンの最初期の著作『物質と記憶』を
参照することで、ベルクソンの「持続」概念が
映画の運動イメージを先取っていたことを示し、
ベルクソンを単純に映画の敵対者とする解釈を退けます。

第二のテーゼでは、運動を再構成する二つの仕方、
いわば古代の弁証法と近代の弁証法とが取り上げられます。
このうち近代的な弁証法に着目することでドゥルーズは、
運動の各瞬間に新しいものが生産されていることを
ベルクソンは見ていたと語ります。

第三のテーゼは、運動は持続=〈全体〉における変化の表現であると
いうもので(たとえば、砂糖を水のなかでかき回す運動は、
水から砂糖水への質的変化の表現でもある)、
ここから最終的に時間イメージが導き出されることになります。

僕自身も完全に理解できているわけではないので、
このまとめが誤りを含んでいる可能性もありますが、
これを足がかりに読書会で検討していきましょう。

2017年1月28日土曜日

ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』読書会 第四十一回

読書会のお知らせです。

日時:1月31日(火曜日) 18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』
(財津理訳、河出書房新社、2012年)
範囲:結論「カオスから脳へ」355-367頁

前回、本書の最終部分が残ってしまったので、
今回が本書の読書会の最終回になります。
また、読み終えたあとは、本書全体についての議論や、
次に読む『シネマ』について簡単な導入もできればと思います。

前回の範囲では、カオスとオピニオンとの二重の闘いを繰り広げる
思考の三つの形態、哲学、科学、芸術に対して、
脳は、それぞれの形態の描く平面が接合される(統一されるのではなく)
器官として位置づけられました。
さらに、人間が考えるのではなく脳が考えるのだとされ、
脳こそが思考の「主体sujet」であると主張されました。

今回の範囲では、まず、思考の形態ごとに
主体のあり方が分類され、
前回扱った、自己俯瞰する「自己超越体superjet」としての
哲学的主体、
感覚を観照し縮約する、自己享受としての主体(injet)である
芸術的主体、
認識する主体(ejet)としての科学的主体がそれぞれ論じられます。

本書の最終部分では、前回も紹介したとおり、
思考の三つの平面同士の干渉が問題となります。
そしてさらに、各平面に内在する干渉として、
《非》Nonとの関係が挙げられます。
思考のそれぞれの形態はそれ自身にとっての《非》と
本質的な関係をもち、この《非》は、各平面が
カオスと立ち向かう臨界点において見い出される、と。
この《非》が「来るべき民衆」と重ね合わせられたところで
本書は終わりを迎えます。

長かった旅も今回でひとまず終わりです。
本書全体をめぐって楽しく議論できればと思います。