2017年5月27日土曜日

『シネマ』読書会 第4回

読書会のお知らせです。

日時:5月30日(火曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第3章「モンタージュ」第2節
担当: 60-67頁 谷口
    68-74頁 乙部

僕のほうから、前回の範囲の振り返りと、
今回の範囲の予告を少しだけ。

前回の範囲のうち、まず第2章第3節では、
第1節と第2節でのフレームとショットの定義をふまえた上で、
「全体」(たとえば作品の表現する世界)を表現する運動イメージが
どのように獲得されるのかが問題とされました。
具体的には、カメラの動くショットとモンタージュとによって
運動イメージが得られるとされます。

カメラが固定されていた初期の時代では、運動はフレーム内の要素の動きでしかなく、
運動イメージそのものとは呼べなかったのに対して、
カメラが移動するショットと、ショットをつなぐモンタージュとによって
はじめて、画面外まで含めた「全体」を表現することが可能になると
ドゥルーズは言います。

ただ、映画の幼年期は、カメラの動きもつなぎも観客が気づかないような
(知覚不可能な)自然なものであり、その真の可能性は解放されておらず、
にせのつなぎ、つまり断絶を含んだモンタージュこそが、
「全体」へとつながる開きをもたらすと、第2章はまとめられました。

続いて第3章「モンタージュ」の第1節では、
まず、モンタージュはつなぎによる「全体」の規定であると定義されます。
つまり、一本の映画を通して「何かが変化する」とき(出来事)、
それはモンタージュの作り出す運動イメージによって
間接的にのみ把握されることになります。
この変化する「全体」、時間のイメージこそが
映画の理念であるとドゥルーズは位置付けます。

その上で、ドゥルーズはモンタージュの手法を4つに分類し、
最初に分析の対象となるのが、グリフィスでした。
グリフィスの映画は、並行モンタージュに見られるような二元性、
そしてその二元性から生まれる闘争、さらにその闘争の収束といった
有機的組織として分析されます。

そして今回の範囲、第3章第2節では、エイゼンシュテインを
はじめとするソビエトの弁証法的手法が、どのようにグリフィスを
乗り越えたのかが詳細に分析されます。
詳しくは発表者のお二人にお任せしますが、
簡潔に特徴を二つ挙げておくと、
グリフィスの平行的な二元性に対して、弁証法的なスパイラル、
また、対立する線を移行するときに現れるパトスが
エイゼンシュテインのモンタージュの特徴とされます。

こんなところでしょうか。
読解のお役に立てば幸いです。