2018年11月21日水曜日

『シネマ』読書会 第22回

読書会のご案内です。

日時:11月28日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲:
第10章「行動イメージ—小形式」第三節 
第11章「フィギュール、あるいは諸形式の変換」第一節・第二節(?)
担当: 守屋

次回は第10章第三節を復習するところから始めたいと思います。
前回は、守屋さんのおかげで、
参照されているチャップリンやキートンの映画の場面をかなり見ることができました。
ただ、その分テキストの検討にあまり時間をかけられなかったので、
次回はより突っ込んだ議論ができればと思っています。
おそらく、チャップリン作品における言説の役割の分析(邦訳302頁あたり)や、
キートンとチャップリンの差異などが問題になると思いますが、
このあたりは発表担当である守屋さんに主導してもらって
論点を整理していくことにしましょう。

第11章「フィギュール、あるいは諸形式の変換」では、
前回も書いたように、大形式と小形式のあいだの変換が問題となります。
第一節では、二つの形式がたんに行動の形式であるだけでなく、
映画をどう撮るかという「構想』(conception)の二つのタイプでもあるとされ、
プラトンのイデアになぞらえられます。
そして、エイゼンシュテインの理論を参照しながら、
ソビエトの映画作家の作品のなかでどのように両形式の転換が行われているか、
詳しく論じられます。
前回も書きましたが、この第一節はかなり内容が濃く、論点が多いので、
じっくり読み進められればと思います。
特に、以前から会で問題になっていた、シチュエーションと行動の差異については、
ここでより深い議論ができるのではないかと思います。

第二節は、ヘルツォークの映画が行動イメージの極端な例として分析されるようですが、
次回はそこまで行けるかどうか…。
最初に参照されている『アギーレ』の予告編がこちら
予告編だけでもかなり強烈ですが、果たしてドゥルーズがこれをどう料理するのか、
楽しみです。

2018年10月22日月曜日

『シネマ』読書会 第21回

読書会のご案内です。

日時:10月24日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲と担当:
第10章「行動イメージ—小形式」第二節(291–295頁〕 大久保
第10章第三節と第11章「フィギュール、あるいは諸形式の変換」(295–頁) 守屋

今回は、第10章の中盤あたりから読みはじめ、最低限この章は読み終え、
できれば第11章の第一節を少しでも読みたいと思います。

前回の範囲で小形式の特徴が記述され、
小形式を用いるジャンルが挙げられていきました。

第二節前半で、大形式の変形(デフォルマシオン)として、
ウェスタンでのホークスが分析されましたが、
今回扱う第二節後半では、小形式のウェスタンとして
ネオ・ウェスタンの作品が扱われていきます。

前章ではフォードのウェスタン作品が大形式の範例として分析されていたわけですが、
今回はそれとの対比でサム・ペキンパーやアンソニー・マンの作品が分析されます。
ペキンパーの作品では『ワイルド・パンチ』の一部がこちら
ドゥルーズの言うような、もはや大形式の二元性が成立しない、
敵味方の区別が不明な銃撃戦の場面です。
アーサー・ペンの『小さな巨人』の予告編がこちら

第三節では、小形式の典型的ジャンルとしてスラップスティックが扱われ、
まずチャップリンの作品が分析されます。
チャップリンには、行動の小さな差異が二つの状況のあいだの大きな距離を
示唆するという小形式の典型的手法が見られるとされます。
また、『独裁者』の有名な最後の演説シーンを例として、
演説というフィギュールの効果も分析されます。
これに対して、
ふつうスラップスティックの典型と思われるバスター・キートンの作品は、
むしろスラップスティックの内容を大形式で成立させたものとされます。

興味深いのは、チャップリンとキートンのそれぞれに異なる社会主義的ヴィジョンが
読み取られる(共産主義的チャップリンとアナーキズム的キートン)ことですが、
このあたりは読書会で議論することにしましょう。
チャップリンとキートンはあまりに有名でしょうから、作品へのリンクは省略します。

第11章「フィギュール、あるいは諸形式の変換」では、
大形式と小形式のあいだの変換が問題となります。

第一節では、まず、多くの作家において両形式が混在していることが指摘され、
この二つの形式がたんに行動の形式であるだけでなく、
映画をどう撮るかという「構想』(conception)の二つのタイプでもあるとされます。

具体的には、第三章で取り上げられた、エイゼンシュテインをはじめとする
ソビエトの映画作家の作品を改めて分析しながら、
両形式の転換が詳しく論じられます。
この第一節はかなり内容が濃く、論点が多いので、
ゆっくり解きほぐしながら読む必要がありそうです。
エイゼンシュテインのさまざまな作品が本節では参照されていますが、
とりあえず有名なところで『戦艦ポチョムキン』を。

こんなところでしょうか。

(以下、会のあとの振り返りです。10月26日追記)

まず、大形式と小形式における行動の位置づけの違いが問題になりました。
また、これは今回守屋さんも指摘していたことですが、
行動イメージにおける「行動」が、
必ずしも通常の意味での行動ではないようなものまで指していること、
それゆえS(シチュエーション)とA(行動)の区分も明確でないことなどが
議論されたように思います。
次の第11章では大形式と小形式の転換が問題になり、
SとAの差異が重要になりそうなので、
この問題についてはそこで改めて議論できればと思います。

次に、第10章第二節末尾から現れる「宇宙線」(ligne d'univers)という概念について、
物理学用語としての側面
(「世界線」。これについては上田さんからクリアーな補足解説がありました)も
ふまえながら、その規定が議論されました。
訳注が指摘するようなベルクソンとの関連や、
ドゥルーズの他の著作での「宇宙」の位置づけ、また『シネマ』第二巻との関係など、
かなり射程の大きい問題のような気もするので、
引き続き注意しておく必要がある概念かもしれません。

第10章第三節に関しては、まず道具と機械の違いが何か、
守屋さんから問題提起されました。
これについては、目的と手段の連関に置かれた「道具」と、
本来のそうした連関から逸脱して別のものと接続される「機械」という
『アンチ・オイディプス』での議論で理解できるのではないかと僕から返答しました。

また、チャップリン『独裁者』の分析で大きく取り扱われる「言説」の機能が
何かということも守屋さんから問題提起されました。
正直なところ、
今回の範囲の記述だけでは「言説」がどういうものか理解するのが難しく、
第二巻での議論を待つべきではないかという結論に落ち着いたのではないかと思います。
今振り返ってみても、ドゥルーズの他の著作やガタリとの共著でされている
言語についての議論とうまく接続できるようなことが特に言われていない気がします。
今後の展開を待つとしましょう。



2018年9月23日日曜日

『シネマ』読書会 第20回

直前になりますが、次回の読書会のご案内です。

日時:9月26日(火曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第10章「行動イメージ—小形式」279頁–
担当: 大久保

前回、第9章を読み切ったので、今回は第10章からになります。

第10章は、すでに何度か紹介しているように、
行動イメージの小形式が扱われます。
大形式がS–A–S'だったのに対し、それを反転したA–S–A'が小形式になります。
行動がなんらかのシチュエーションを明らかにする形式とされます。

まず第一節の前半では、この小形式が省略的=楕円的表象として整理されます。
つまり、省略(ellipse)によってひとつのシチュエーションが推理されると同時に、
中心を二つ持つ楕円(ellipse)のように、
二つのシチュエーションが同時に示唆されるのが、
小形式である、というわけです。

この節では、以前も紹介したチャップリン『巴里の女性』と、
ルビッチの映画が主に参照されます。
『巴里の女性』のリンクをもう一度貼っておきます。
ルビッチについては、この節でも参照されている
『生きるべきか死ぬべきか』のワンシーンがここで見れます。

ルビッチについては、学部のときに蓮實重彦文体をマネて
レポートを出したこともあるぐらい好きな作家です。
未見の方はぜひ。

第一節の後半では、
小形式がたんに低予算の映画にかぎらない形式であることが指摘された上で、
小形式のジャンル論が展開されます。

第二節では、ウエスタンを題材にしながら、大形式との対比がなされます。
前半では主にホークスを参照しながら、
大形式にあった有機的組織が小形式では失われていることが指摘されます。
ホークスはいろいろとユーチューブにあがっていますが、
とりあえずバコール様が出てくるこちら

第二節後半はサム・ペキンパーが主に参照されるようですが、
今回はそこまでいけますかどうか。


(以下、会の振り返りです。9月30日追記)

議論で問題とされたのは、
まず、守屋さんから、小形式で「行動」と呼ばれているものは、
具体的にはほとんど行動と呼べないもの
(女性の顔に映る電車の影など)ばかりではないか、
という指摘がありました。

たしかに、10章第一節ではドゥルーズは「行動」とはほとんど言わず、
「指標記号」ということばを主に使っています。
「大形式」と「小形式」という対比にまとめるためにやや無理している感がありますね。
なぜドゥルーズがこの対立項を使っているのか、
またこの二つの形式のあいだの関係はどのようなものかといったことは、
これから次章にかけて明らかになっていくようなので、
この問題についてはそこで改めて議論できればと思います。

また、これも守屋さんからだったと思いますが、
第二節で使われている位相幾何学的な表現が、
どこまで正確なものなのかも問題とされました。

これはドゥルーズを読むときにつねにつきまとう問題ですね。
あえてドゥルーズ側に立つならば、
最低限、『差異と反復』あたりで同様の表現を使っているときに
意味されていることをふまえて、
この『シネマ』のなかの同様の表現も読むべきだとは思います
(もちろん、果たして『差異と反復』での数学的表現も
どこまで正確なのかも問われるとは思いますが)。

目立った論点はそのあたりでしょうか。



2018年8月17日金曜日

『シネマ』読書会 第19回

遅くなりましたが、次回の読書会のご案内です。

日時:8月22日(火曜日)19時-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第9章「行動イメージ—大形式」第二節途中から(266頁〜)
担当: 大久保

前回で第9章第二節をとりあえず読み切り、
行動イメージの大形式の5つの法則を見ましたが、
レジュメは第二の法則のところ(邦訳266頁)までしかなかったので、
今回はそこからになります。
最低限第三節まで読み切り、
できれば第10章の第一節に入りたいと思います。

第二節では、行動イメージの大形式(S–A–S')の5つの技法
(環境の有機的構造、収束交替モンタージュ、「禁じられたモンタージュ」、
二元性の入れ子、シチュエーションと行動との大きな隔たり)が描かれます。
久しぶりにモンタージュを中心とした技法が取り上げられるので、
映画を見ておけば比較的わかりやすいのではないかと思います。
映画では、フリッツ・ラングの『M』が特権的な参照対象なので、
ぜひ見ておくことをおすすめします。
英語字幕付きでしたらこちら

ちなみにフリッツ・ラングはこの夏
渋谷のシネマ・ヴェーラで特集上映をしていたのですが、
なんと今日が最終日ですね…。

第三節では、行動イメージの大形式の延長上にある映画として、
アクターズ・スタジオの映画やエリア・カザンの映画が取り上げられます。
ここでは、シチュエーションに登場人物が浸透されていく植物的な極と、
この浸透された人物が突発的に行動を起こす(アクティングアウト)動物的な極が
設定され、この二極の連鎖で映画が解読されていきます。
アクターズスタジオの規則などもこの二極から説明されていくことになります。
映画としては、まず、アーサー・ペンの『フォー・フレンズ』が参照されていますが、
予告編らしきものがこちら
残念ながら本のなかで言及されているシーンはここには含まれてなさそうです。

エリア・カザンについては、『ベビィドール』の予告編がこちら
「幼い若妻の植物的な存在」はここからもわかりますね。
『アメリカ アメリカ』のカザン自身による紹介画像らしきものがこちら
そのラストシーンがこちら

第10章では行動イメージの小形式が扱われます。
大形式のS–A–Sを反転した、A–S–A'が小形式で、
行動がなんらかのシチュエーションをあかるみに出す形式とされます。
つまり、行動がひとつの指標となり、そこから推論によって
シチュエーションが読み取られるという構造です。
主にコメディがここに分類されていくようですが、
最初に重要な映画として参照されているのが、
チャップリンの『巴里の女性』です。
その部分的な抜粋がこちら
ドゥルーズの最初の分析はこの動画のシーンを指しているようです。

次回の範囲についてはこんなところでしょうか。

ちなみに、福尾匠さんの
『眼がスクリーンになるとき—ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』—』
出版されましたね。
僕はまだパラパラ見た程度ですが、
『シネマ』全体の構造をつかむには良さそうな本です。
次回はこの本にも触れられればと思います。


(以下、読書会後の振り返りです 追記2018/08/25)

覚えているかぎりで、簡単に前回の議論を振り返っておきますと、

まず、乙部さんから、9章の二節で言われる「法則(loi)」は
どういう意味だろうかという疑問が出されました。

これはおそらく誰もが感じる疑問だと思いますが、
僕からは、これはおそらく構造の「法則」という意味ぐらいのことで、
規範性などは含まれないのではないかと指摘しておきました。
ここまで読んできた感じでは、
運動イメージの各章は、まず各イメージの構造を描き、
そのあとで、そのイメージの発生を問うという叙述形式に
なっているのではないかと思います
(きちんと検証したわけではありませんが)。
福尾匠さんの本を踏まえると、おそらくそうした発生の源泉として、
時間イメージが第二巻で措定されていくという流れになるのではないでしょうか。

また、9章第三節の終わりで論じられる「内的ファクター」が、
感情イメージや欲動イメージとどう異なるのかといったことも
議論になりました。
実際、各章で取り上げられる映画作家が重なる場合もあり、
厳密に分類するのは難しいのではという結論になったように思います。

上田さんからは、9章第二節で言われる、行動の前の「大きな隔たり」が、
ベルクソンの知覚–運動系内における「隔たり」と、重なっているのではないか
という指摘がありました。
これは確かにその通りで、原語が同じ(écart)ことからしても、
ドゥルーズが意識しているのはまちがいないと思います。
したがって、むしろ「大きな」という規定が重要になってくるのかもしれません。

こんなところでしょうか。




2018年7月13日金曜日

『シネマ』読書会 第18回

遅くなりましたが、次回の読書会のご案内です。

日時:7月17日(火曜日)19時-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第9章「行動イメージ—大形式」第一節途中から
担当: 大久保

前回は邦訳257頁(原書p. 203)途中の段落までレジュメがありましたので、
今回はその続きからです。第二節を読み切れればよいかなと思います。

第9章は、行動イメージと、特にそのうち大形式(S–A–S')がテーマになっています
(小形式(A–S–A')は第10章のテーマになります)。
本書はベルクソンの知覚モデルにしたがって、
知覚–感情–行動の三区分でイメージを分類してきたわけですが、
第9章からいよいよその最後の区分である「行動」に入っていきます。

感情の力や質が、感情イメージの場合のように、顔やクローズアップに表現されたり
断片的なイメージ(任意空間)で純粋に表現されたりするのではなく、
また、欲動イメージのように、環境のなかに完全には現働化されずに
残余が残り続けるのでもなく、
むしろ、しっかりと規定された時空のなかで現働化され、
行動として具現化されるのが、行動イメージになります。

そして、行動イメージのうち、大形式の特徴は、
感情の質や力を現働化する環境
(〈包括者Englobant〉や「共記号synsigne」とも呼ばれています)と、
その環境のなかで具現化された勢力forceによって人物が突き動かされて取る行動との
二極が設定され、
最初の環境が、ある行動によって、新しい環境に変わり、
新しい生存様式を作り出す(S–A–S')というところにあります。
また、環境と行動の対立、あるいは、ウエスタンの映画のように、
人物と人物の対立など、さまざまな二元性が大形式の特徴として指摘され、
パースの用語を用いて「二項表現binôme」と呼ばれています。

前回の範囲では、大形式の概略が規定された上で、いくつかのジャンル
(ドキュメンタリー、社会心理的作品、フィルム・ノワール、ウエスタン)のなかに
それが確認されていきました。

今回の範囲では、まず、引き続きウエスタンの分析が続けられます。
取り扱われている分量から言っても、
ウエスタンがこの大形式の重要な範例のひとつであるのはまちがいないでしょう。
ドゥルーズは、ウエスタンが叙事詩的なものではなく、
(広い意味で)倫理的な形式であり、
環境–行動–新しい環境とスパイラル状に変化するさまを描くものであることを
強調します。
作品としてはジョン・フォードの『馬上の二人』や『リバティ・バランスを射った男』が参照されています。
『リバティ・バランスを射った男』については断片的に見ることができます。
たとえば、こちら

そして、フォードの映画において
アメリカン・ドリームが果たす役割の重要さを指摘した上で、
ドゥルーズは、アメリカ映画全体がたえずアメリカ国民の誕生を描いてきたこと
(たとえば、言うまでもなく、グリフィス『國民の創生』)、
その際に歴史映画が大きなジャンルを形成してきたことも指摘します。
第一節の最後では、アメリカ映画に表れている歴史観を分析するために、
ニーチェ(『反時代的考察』第二論文)が参照されますが
(正直、あまりニーチェに忠実ではありません…)、
参照されている作家(グリフィスやセシル・B・デミル)からすれば、
第3章「モンタージュ」での彼らについての分析も同時に見ておく必要がありそうです。
実際、たとえば、二元性の特徴は第3章でも指摘されていたと思います。

第9章第二節では、行動イメージ大形式の5つの法則が描かれていきます
(環境の有機的構造、収束交替モンタージュ、「禁じられたモンタージュ」、
二元性の入れ子、シチュエーションと行動との大きな隔たり)。
この範囲は比較的わかりやすく、映画を見なくてもなんとか理解できるかと思います。
ただ、フリッツ・ラングの『M』は各法則のところで大きく取り上げられているので
見ておくほうがよいかもしれません。
英語字幕付きでしたらこちら

第三節では、行動主義の映画としてアクターズ・スタジオの映画や
エリア・カザンの映画が取り上げられます。
今回はこの節の冒頭を読むぐらいで時間切れになりそうです。

2018年7月10日火曜日

『シネマ』読書会 第17回の振り返り

こちらのブログでは告知ができませんでしたが、
『シネマ』読書会第17回が6月19日に行われました。

読んだ範囲は、上巻の第9章第1節途中まででした。
以下、当日のレジュメ担当だった谷口さんによる振り返りです。


遅くなってしまいましたが、前回の『シネマ』読書会を軽く振り返りたいと思います。

まず、ドゥルーズがSと呼ぶものは、
単純な環境(→そもそも「環境」とはなんぞや?)に留まらず、
その中で行動する人物なども含んでいそうなこと(上田くんによる指摘)。

それから、249頁の「二次性」の意味について、
7章などとの比較を通して議論しました
(エリスさんからの疑問提起→結局僕はまだパースについて全然理解できていません汗)

シェストレームの『風』については、
起源的世界なのか任意空間なのか事物状態なのか、見方によってどうとでもなるじゃん!
というツッコミが入りましたね。

それと、大久保さん的には
第五段落でドキュメンタリーが入ってくる必然性がいまいちピンとこなかった、
とのこと。
逆に第六段落の「倫理的形式」(民衆と指導者)の構図は、
その後も引き継がれていくので重要であるとの見解も述べて下さいました。

フィルムノワールについては、
欲動イメージとの破壊性の違いが上田くんによってまとめられ
(環境によっての堕落か、内部からの堕落か)、
僕はスッキリとしました。

ウエスタンの話は次回も続いていきそうなので、
とりあえずこんなところでしょうか。

2018年5月23日水曜日

『シネマ』読書会 第16回

次回の読書会のご案内です。

日時:5月29日(火曜日)19時-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第8章「情動から行動へ—欲動イメージ」第二・三節
担当: 上田

会の冒頭では、守屋さんから、
感情イメージと欲動イメージと行動イメージの区別について
簡単にご報告頂く予定です。
そこでの議論で各イメージについて共通理解を作れればと思います。

今回は、第8章の第二・三節を読みます。
第一節で欲動イメージの道具立てが大体出揃ったところで、
今回はさまざま作家について、こうした道具立てを使いながら
細かい異同が指摘されていくことになります。
今回の範囲は出てくる作家が多く、したがって参照される作品も多いので、
実際に作品にあたりながら議論を追うのがなかなか大変になりそうです。
少しでも見たことのある作品がある場合は、
議論の際に補足いただけると助かります。

第二節は、主にルイス・ブニュエルの作品が取り上げられます。
シュトロハイムと異なって、身体の欲動だけでなく
心(âme)の欲動も発見したとされるブニュエルは、
自然主義の作品に特徴的な劣化=堕落(dégradation)を表現するにあたって、
シュトロハイムのようにエントロピーの増大というかたちを取らず、
永遠回帰やサイクルのかたちを取るとされます。
さらにこれによって、ブニュエルは精神的な救済の問いを
反復として提起できたとされます。
レイモン・ルーセルが参照されているのも興味深いところですが、
ブニュエル自身の作品で参照されているものとしては、
たとえば『皆殺しの天使』があります。
わかりやすい予告編がこちら


第三節では、まず、欲動イメージを描く自然主義に近づきながらも
そうならなかった作家たちが、何人か挙げられます
(ヴィスコンティ、ルノワール、サミュエル・フラー、キング・ヴィダー)。
そして、特にニコラス・レイが取り上げられ、
初期や後期においては叙情的抽象(第7章を参照してください)に
分類される作風でありながら、
中期において自然主義に接近していることが指摘されます。
自然主義に特徴的な、行動として発現することのない圧縮された暴力が
表現されたシーンとして挙がっているのが、
たとえば『暗黒街の女』のこちらのダンス・シーン


第三節後半は、自然主義の第三の偉大な作家として、
ジョセフ・ロージーが取り上げられます。
第一節で挙げられた欲動イメージのさまざまな特徴が、
ロージーの作品のなかに見いだされながら、
同時にシュトロハイムやブニュエルとの差異も指摘されていきます。
特に大きな特徴とされるのが、
行動(action)に入る前の行為=現働態(act)としての暴力
(フランシス・ベーコンやジャン・ジュネの名も挙げられています)や、
自己への跳ね返りとしての劣化=堕落などです。
詳しくは読書会のなかで見ていくことにしましょう。

ロージーについては数多くの作品が参照されていて、
ちょっとお手上げという感じですが、
欲動イメージや自然主義の雰囲気がわかりやすく伝わってくるものとして、
『エヴァの匂い』の予告編がこちら

こんなところでしょうか。
挙げられている作品数が多いため消化不良気味になりそうですが、
話の大筋だけでも見失わないようにがんばっていきましょう。


(以下、上田さんによる読書会の振り返りです。6月5日追記)

前回の振り返りですが、
初めに守谷さんから『感情イメージのイデアリスムについて』と題して、
感情イメージと情動という概念の位置づけを検討する発表をしていただきました。
ベルクソンからの引用や手書きの図、ゴッホの絵画などまで交えた
守谷さんの解説によって、クリアな整理が進んだように思います。

その結果、
— 行動イメージの体制への現動化のプロセスにおいて捉えられると同時に、
潜在性や出来事、一次性の領域にとどまり続けるプロセス
(あるいはその顔を通した表現)においても捉えられるという情動の両義性
— 上記のうち後者の側面、すなわち表現されたものである限りでの
それ自体として考察される情動こそが厳密な意味での感情イメージであるという規定

が明確になりました。

一方、
— ベルクソンの「イマージュ」は常に現動的なものという位置づけをされていた。
これに対しドゥルーズの感情イメージが潜在的なものまで含んでいるとすれば、
ドゥルーズにおいて「イメージ」とはつまるところ何なのか
— 結局、なぜ感情イメージでは潜在的なものがそのまま表現されうるのか
— ここでの「表現」という言葉は何なのか

といった(ドゥルーズの潜在性概念そのものの難解さにかかわる…)
問いがあぶり出されたと思います。

次に、第8章第2節からこの章の終わりまでを検討しました。
入手困難な作品が多く、日本で『シネマ』を読むことの難しさを
考えずにはいられませんでしたが、
一方で守谷さんのタブレットをお借りして
ブニュエルの『皆殺しの天使』の結末をその場で鑑賞し、
救済としての反復といった記述の理解が進められた点では、
現代にこの本を読めることの強さをも感じられた会でした。

挙がった論点としては、

— 『皆殺しの天使』の結末が確かに良き反復めいてるにしても、
最後の革命の光景や羊たちの映像はどう理解すればよいのか
(論点というより困惑、ドゥルーズもこの点は問いを開いたままにしている)
— ブニュエルの「舞台」という新たな記号は何を指しているのか、
それはルノワールの「舞台」(p.236)と関係しているのか
(下巻で再び取り上げられる?)
— ニコラス・レイについて語られているような自然主義と叙情的抽象は
どのような関係なのか
(「悪の選択」と「悪の「ためのpour」選択」という、
p.203でもp.239でも登場する区別や、
「善なる人間は必然的に、悪なる人間がたどりつくまさにその地点で
始まるとでも言えそうである」(p.203)という記述をふまえ、
「真の選択が不可能なまま欲動によって劣化=堕落していく自然主義から、
その行き着いた先で真の選択を行い、暴力を克服し、静謐を獲得する叙情的抽象へ」、
というストーリーが暗に描かれているのではないかという仮説が立ったが、
十分には検討できなかった)
— これと連動し改めて、pp.200-206において展開される
(ドゥルーズの哲学の中では異様ともいえる)
「選択」の議論をどう理解すればよいのか

などでしょうか。長めの振り返りとなってしまい恐縮ですが、
補足があればぜひお願いいたします。

(以下、上田さんからの振り返りを受けて、大久保からの補足です)

一点補足すると、「表現(expression)」の概念は、
会のなかでも指摘したように、
『スピノザと表現の問題』や『意味の論理学』で大きく取り扱われる、
中期ドゥルーズの主要概念です。

簡単にまとめてしまえば、
命題などの「表現」によって「表現されるもの(exprimé)」が、
「意味(sens)=出来事」です。
この「意味=出来事」の例として『不思議の国のアリス』のなかのチェシャ猫の笑い
(身体は消えても残る笑い)を
ドゥルーズがたびたび挙げていることからもわかるように、
重要なのは、この「意味=出来事」は理念的レベルに存在するものだという点です。
そして『シネマ』ではこの「意味=出来事」とほぼ等値のものとして
「情動」が提示されています。
以前の会でも指摘したように、
ある意味最も身体的とも言える情動を、
果たして理念的な出来事と同類のものとして見なすことができるのか、
大きな疑問が残りますが、
ともかくドゥルーズはそのように見なしているわけです。
このあたりは前回の守屋さんの提起とも重なる問題かもしれませんね。

2018年4月20日金曜日

『シネマ』読書会 第15回

次回の読書会のご案内です。

日時:4月24日(火曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲と担当: 第8章「情動から行動へ—欲動イメージ」第一・二節
217–225頁 エリス
225–235頁 上田

今回は、第8章前半を読みます。
感情イメージと行動イメージの中間にある、欲動イメージがテーマとなります。
最初の区分では、知覚–感情–行動という三区分だったわけですが、
感情イメージと行動イメージのあいだに、欲動イメージが割り込むかたちになります。
映画作品としては、エリック・フォン・シュトロハイムとルイス・ブニュエルの作品が
主に取り上げられます。

任意空間をその場とする感情イメージと、
規定された空間(いわゆる日常的な空間のことだと考えてよいでしょう)を
その場とする行動イメージとのあいだにあって、
規定された空間の底に位置する「起源的空間」
(映画作品ごとに何らかの場面がこうした空間として想定されているようです)
を蠢く欲動イメージが、
主にシュトロハイムやブニュエルの作品にそくして分析されます。
純粋な情動ではなく、かといって行動につながるようなものでもなく、
あくまでもみずからの充足を目指して自律的に蠢くのが欲動イメージと言えそうです。

この「起源的空間」と規定された空間とのあいだには
時間的関係(エントロピー、反復)が見出されます。
ここから、下巻の主題となる時間イメージの問題が少しだけ予示されることになります。
また、欲動についてもその本性やその対象について詳しく分析されていきます。
ここですべてを紹介するのは難しい詳細な議論なので、
一緒に読みながら検討することにしましょう。

「欲動pulsion」ということばの選択や、
他に登場する語彙(欲動の対象や運命、フェティッシュ、死の欲動)から見ても、
フロイトの欲動論が下敷きになっているのは明らかだと思います。
ブニュエルはシュールレアリスムの作家として分類されることが多いと思いますが、
シュールレアリスムとフロイトの影響関係を考えても、
フロイトの理論を念頭に置きながら今回の範囲を読むと
少し見通しがつけやすいかと思います。

また、こうした欲動イメージは、文学における自然主義と対応すると言われています。
自然主義の代表的な作家としてエミール・ゾラが挙げられていますが、
ドゥルーズには独立したゾラ論があります
(「幻影と現代哲学」、『意味の論理学』下巻所収)。
興味のある方はそちらも目を通してみて下さい。

今回の範囲は、映画の技法というよりは作品の内容についての議論になっているので、
実際に映画を見ておかないと理解するのがなかなか大変になりそうです。
シュトロハイムもブニュエルもかなりの作品がYouTubeなどで見れるので、ぜひ少しでも見ておいて下さい。

まず、シュトロハイムの『愚かなる妻』
同じく『グリード』

ブニュエルの作品では、あまりにも有名な『アンダルシアの犬』
同じく『黄金時代』
『皆殺しの天使』の予告編

(以下、エリスさんによる読書会の振り返りです(5月1日追記)。)

議論にあがった論点としては、

●「起源的世界」と「規定された空間」の接続のされ方は、
「任意空間」と「規定された空間」の接続のされ方とどう異なるのか?
(内在vs潜在?)
また、情動と欲動は映画において本当に見分けられるものなのか?
(226頁 例えば、映画のクロースアップにおいて)

● フロイト心理学との関係
  - 「死の欲動」とは、エントロピーの増大による世界の崩壊への
エネルギーの動きのことか?
またその対概念として、「 ネゲントロピー」
(エントロピーの逆。例えば生物が体温を保って体温の分散を防ぐこと)についても
上田さんから少し説明があった。

  - 欲動が現実的な環境から「引き抜かれる」「抽出される」という表現について、
これもおそらくフロイトの欲動理論
(部分対象を引き抜いて欲動を抱く、フェティシズム)
を下敷きにしている。

  - 230頁「寄生欲動」とはなにか?これもおそらくフロイトの「固着」の概念との関係している。

● 悪しき「反復」からの解放(8章後半)の話と、
起源的世界において諸行動が
「諸行動を合成してはいなかった原初的な諸々の行為=現働態に向かって、
その諸行動は自らを越える」という話は
具体的にどうつながるのか?
さらに、「起源的世界への回帰」と「救済」の関係は何か?
(222頁〜徐々に「救済」に言及)

● 「欲動」と環境の関係:欲動は環境を探求し尽くして
どこで自らの欲望を満たそうとするが、
同時に欲動は、その環境のなかで規定され、
「選択」する自由を奪われるため、
欲動はさらに別の環境に向かっていく。
つまり、欲動と環境の緊張関係のようなものがあるのか?

などだったと思います。


2018年3月21日水曜日

『シネマ』読書会 第14回

読書会のご案内です。

日時:3月27日(火曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲と担当: 第7章「感情イメージ—力、質、任意空間」第三節
197–208頁 谷口
208–216頁 大久保

今回は、第7章第三節が主な読解対象になります。
ただ、今回の範囲では「任意空間」の概念が詳しく展開されるので、
最初に第二節を簡単に振り返り「任意空間」の規定を確認してから、
第三節の読解に入りたいと思います。

第7章第三節では、まず、この「任意空間」を構築する技法として、
ドイツ表現主義と「叙情的抽象」が参照されます。
この二つは、第6章でも顔のクローズアップを行なう流派として
分析されていました。

ドイツ表現主義は、光と闇の対立、争いによって、
空間の個別性を失わせ空間を潜在化させます。
参照されている作家としては、
たとえばすでに何度も参照されているムルナウがいますが、
その作品『吸血鬼ノスフェラトゥ』の予告編はこちら

これに対して、叙情的抽象と呼ばれる技法は、光と闇の対立ではなく、
光と闇の交替や二者択一によって特徴づけられます。
この技法には主にスタンバーグ、ブレッソン、ドライヤーが分類されています。
ドゥルーズ自身が認めるように、
かなり多様な作家がここに分類されてるといえるでしょう。
最初に参照されているジャック・ターナーの『キャット・ピープル』の
プールのシーンがこちら

興味深いことに、最初は光と闇の交替や二者択一が問題となりますが、
途中から、映画のプロット中の登場人物の行動が問題となり(「精神の二者択一」)、
むしろこれが叙情的抽象の中心的問題として論じられることになります。
さらにそこに、賭けや信仰を通した選択という哲学的議論が重ねられていきます。

議論として入り組んでいて、
しかもさまざまな映画のストーリーが参照されているため、
かなり難解になっています。
会のなかで一緒に読みながら少しでも解きほぐすことができればと思います。

第三節後半は、色彩による任意空間の構築が問題となります。
何もかも吸収してしまう色彩が色彩イメージであると特徴づけられ、
主に参照されるのが
アニェス・ヴェルダやヴィンセント・ミネリ、アントニオーニです。
参照されているヴェルダの『幸福』の予告編がこちら
ミネリの『黙示録の四騎士』の断片がこちら

アントニオーニの場合、色彩イメージは、たんに吸収するだけでなく、
空間を空虚にする機能を担うと特徴づけられます。
参照されている『赤い砂漠』の予告編がこちら

第三節の最後の部分では、多くの戦後映画が参照され、
断片化しただけでなく不定形になった任意空間が増殖したとされます。
その際、これまで描かれてきた、
知覚から感情を経て行動へと至る感覚–運動系が不調をきたし、
純粋な光学的–音声的状況が映画に描かれることになったとされます。
このあたりの議論は下巻を少し先取りしています。

参照されているのは、イタリアのネオ・リアリズム、フランスのヌーベルバーグ、
ニュー・ジャーマン・シネマ、アメリカン・ニューシネマで、
有名な作品も多く挙げられているので、ここでは触れません。
注目すべきは、実験映画として参照されている
マイケル・スノウでしょうか。
『中央地帯』は短い作品ですので、簡単に見ることができると思います。
『波長』も全編見ることができます。

こんなところでしょうか。
次回扱う範囲は一節分しかありませんが、かなり濃い内容が含まれています。
議論しながら読み解いていくことにしましょう。


(以下、読書会後の4月4日の追記です。)

前回の会で議論になった点を簡単に振り返っておくと、

・感情イメージの「発生的エレメント」と呼ばれる「任意空間」の位置づけ
(守屋さんによる第二節の復習レジュメがありました)。

・「叙情的抽象」と呼ばれる作家たちにおいて、
白と黒の交替(alternance)と精神の二者択一(alternative)は
どのように連関しているのか、そもそも連関しているのか。

・精神の二者択一の箇所での、賭けや信仰の議論の内実
(今回最も頭を悩ませた問題でした)や、
他の著作との関係
(たとえば『哲学とは何か』における、世界の存在への信仰のテーマ)。

・色彩イメージの真の特徴とされる、「吸収する」機能とは
どのようなものか。他の特徴とどのように異なるのか。

2018年2月23日金曜日

『シネマ』読書会 第13回

読書会のご案内です。

日時:2月28日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲と担当: 第7章「感情イメージ—力、質、任意空間」
第一節(181–192頁)乙部
第二節(192–197頁)守屋

今回は、第6章最後の部分の復習から入り、
その後、第7章「感情イメージ」の第一節と第二節を扱います。
おそらく第二節の途中で時間切れになるでしょうか。

第7章第一節では、
まず今回もドライヤー『パンドラの箱』のシーンを参照しながら、
現実に存在する事物状態(état de choses)の次元と、
そうした物によって表現される純粋な質や力、すなわち情動=出来事の次元とが、
峻別されます。
その上で、そうした情動=出来事を映画がどのように表現しているのか、
モンタージュ等の技法にそくして具体的に分析されます。
特に第一節後半は、ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』が
特権的な分析対象となっているので、
ご覧になっておくことをおすすめしておきます。
例のごとくユーチューブのリンクはこちら

第二節では、今度はブレッソンの作品を参照しながら、
情動は、ドライヤーの場合のように
必ずしも顔やクローズアップによっては表現されず、
空間の「断片化」、すなわち「任意空間」と、
それら同士の無数のつなぎによっても表現されることが明らかにされます。
ここでもやはりブレッソンの作品を見ることで理解が進むでしょう。
ブレッソンの作品もユーチューブで断片的に見れますが、
ドゥルーズが最初に参照している『ジャンヌ・ダルク裁判』の予告編がこちら

第二節ではさらに、パースの用語を使って、
顔によって表現される感情イメージが「類似記号」(Icône)と、
任意空間によって表現される感情イメージが「性質記号」(Qualisigne)と呼ばれ、
分類されます。
そして、この性質記号の例としてヨリス・イヴェンヌの作品が参照されます。
参照されている『雨』は、12分と短いドキュメンタリーで、

ドゥルーズの情動や出来事といった概念は、彼の哲学の中心に位置しつつも、
わかるようでわからない難解な概念ですが、
今回は具体的な映画作品が多く参照されているので、
これらの作品を見ながらこうした概念について改めて検討できればと思います。

(以下、読書会後の3月4日の追記です。)

前回、議論になった点としては、
・カフカを参照して言われる「亡霊」とは何か?
・なぜカフカやヴェンダースが、少し唐突にここで参照されるのか?
 ヴェンダースの本書における位置づけとは?

・特異性とは何か? (『差異と反復』や『意味の論理学』での議論の復習)
・「成就されても実現されえない出来事の持ち分」(ブランショ)とは?
 そもそもドゥルーズのいう「出来事」とは何か?
 (「68年5月は起こらなかった」の参照)
・顔を「背けること détournement」とは具体的にはどういうことか?
 ハイデガーとの関連はあるのか?

・顔のクローズアップと任意空間との違いは何か?

などでしょうか。
守屋さんや谷口さんのおかげで、実際に映像を見たり、
映画史的な前提を参照したりしながら、理解を深めることができたと思います。

ただ、第7章第二節は少し駆け足で読んでしまったので、
次回の最初に簡単に振り返ることができればと思います。
特に、感情イメージの発生的エレメントと言われる任意空間については、
特異性との関連で僕自身誤読していたかもしれず、
少しミスリーディングな解説をしてしまったかもしれません。
任意空間の議論は、知覚イメージの発生的エレメントの議論と合わせて、
この『シネマ』におけるフィルムという物質の位置づけに関して
重要なポイントになっている感じがします。
このへんも詳しく次回議論できればと思います。


2018年1月26日金曜日

『シネマ』読書会 第12回

読書会のご案内です。

日時:1月31日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲と担当: 第6章「感情イメージ」
第二節(161–169頁)乙部
第三節(169–180頁)エリス

今回は第6章「感情イメージ」の第二節と第三節を扱います。
おそらく第三節の途中で時間切れになるかと思います。

第6章「感情イメージ」の第一節では、
感情イメージ=クローズアップ=顔の二つの極、
すなわち、グリフィスに代表される、物思いに耽る顔と、
エイゼンシュテインに代表される、激しい強度に満たされた顔とが分節されました。
そのほかにも、驚きと欲望、質(qualité)と力(puissance)などの特徴が
この両極に割り振られています。
詳しくは邦訳169頁を参照して下さい。

今回扱う第二節では、
この両極が実際の映画ではたえず移行しあっていることが、
さまざまな映画を例に挙げて例証されます。
冒頭でバプスト『パンドラの箱』の短いシークエンスが例として挙げられていますが、
ちょうどそのシーンを切り取った動画がありました。
このシークエンスはあとでも参照されるので、
見ておくとテクストの理解が進むかもしれません。

第二節で挙げられている例は、
まず(いつものように)グリフィスとエイゼンシュテイン、
次にドイツ表現主義とスタンバーグ(「叙情的抽象」)です。
第二節後半は、ほとんどスタンバーグ礼賛といった感じですので、
少しでも見ておくのをおすすめしておきます。
たしかに光の捉え方が素晴らしい作家です。
たとえばテクストで参照されている『アナタハン』の動画はこちら

第三節は一気に理論の抽象度が上がります。
まず、クローズアップがようやく詳しく規定されます。
クローズアップとは、言語学的、精神分析的批評が言うように、
部分対象がポイントではなく、
ドゥルーズによれば、時空座標から対象を抽象することがポイントになります。
クローズアップによって時空座標から脱領土化されれば、
それが何であろうと「顔」になる、というわけです。

このように時空座標から引き離された「顔」に表現されるものが
質や力という情動affect(「感情affection」でないことに注意です)であり、
感情イメージそのものとされ、
これに対して、こうした情動が時空間のなかで現働化され、
実際の人物に具現化されると、
それはすでに行動イメージであるとされます。

このあたりの議論はパースの概念を用いて整理されていきますが、
基本的には、とりわけ『意味の論理学』で展開された、
出来事の理論の構造(表現と表現されるもの、現働化と可能的なもの、非人称性)を
そのまま情動に当てはめている印象です
(情動を出来事と実際に同一視できるかは大きな疑問ではありますが)。

第三節後半は、
このようにふつうの顔の機能(個体化、社会化、コミュニケーション)を失ってしまった、
情動そのものとしての顔の例を、
主にベルイマンの作品に見ていくことになります。
ベルイマンの作品もユーチューブでいろいろ見れますが
(著作権的に怪しげですが…)、
テクストでも参照されている『仮面/ペルソナ』を挙げておきます。
この作品はまさに顔をもとにしたペルソナが崩壊していく映画です。
感情イメージの臨界点とされている「恐怖」が
なんとなく感じられるのではないでしょうか。

第三節の最後は、カフカを参照しながら、テクノロジーを二つの系列に分け、
ヴェンダースの作品に亡霊としての情動を見ていくことになりますが、
今回はそこまで行けますでしょうか。

以上です。今回は少し詳しく要約を書いてみましたので、
読解のお供にしていただければ幸いです。


(以下、2月13日の追記です。エリスさんによる当日の会の振り返りです)

前回は161ページから177ページの18行目までの範囲を扱いました。

特に時間をかけた箇所は、

-163頁 エイゼンシュタインの強度的セリーの〈分割的(ディヴィデュエル)〉なものとは
何を指すのか、「分人」(le dividuel)とはどのような関係があるのか。

-165頁 ゲーテの色彩論
(ニュートンが行ったように客観的な色のスペクトルを分析するのではなく、
色彩自体を相互依存的かつ偶然なものとして捉える。
陰影はただの暗闇ではない→169頁 「陰影とはつねに帰結である」)
について復習。

-175頁 情動が「非人称的」であり、
「個体化された事物状態から区別されるもの」である一方で、
「特異」で、「他の諸情動とともに形成する特異な組み合わせ
もしくは特異な接続に入ることができる」とはどういうことか。
メルロ=ポンティの「理念(l’idée))」と通じるのではないか。

また、「情動」に先立つなにか、
(いかなる時空間から生成したものではないという意味で)
純粋な可能性の領域としての「情動」は存在しないのだろうか。

- 上の点に関連して、
ドゥルーズの前期と後期における「潜在的なものの領域」の捉え方の変化
(乙部さんがわかりやすく解説)
などだったと思います。