2018年1月26日金曜日

『シネマ』読書会 第12回

読書会のご案内です。

日時:1月31日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲と担当: 第6章「感情イメージ」
第二節(161–169頁)乙部
第三節(169–180頁)エリス

今回は第6章「感情イメージ」の第二節と第三節を扱います。
おそらく第三節の途中で時間切れになるかと思います。

第6章「感情イメージ」の第一節では、
感情イメージ=クローズアップ=顔の二つの極、
すなわち、グリフィスに代表される、物思いに耽る顔と、
エイゼンシュテインに代表される、激しい強度に満たされた顔とが分節されました。
そのほかにも、驚きと欲望、質(qualité)と力(puissance)などの特徴が
この両極に割り振られています。
詳しくは邦訳169頁を参照して下さい。

今回扱う第二節では、
この両極が実際の映画ではたえず移行しあっていることが、
さまざまな映画を例に挙げて例証されます。
冒頭でバプスト『パンドラの箱』の短いシークエンスが例として挙げられていますが、
ちょうどそのシーンを切り取った動画がありました。
このシークエンスはあとでも参照されるので、
見ておくとテクストの理解が進むかもしれません。

第二節で挙げられている例は、
まず(いつものように)グリフィスとエイゼンシュテイン、
次にドイツ表現主義とスタンバーグ(「叙情的抽象」)です。
第二節後半は、ほとんどスタンバーグ礼賛といった感じですので、
少しでも見ておくのをおすすめしておきます。
たしかに光の捉え方が素晴らしい作家です。
たとえばテクストで参照されている『アナタハン』の動画はこちら

第三節は一気に理論の抽象度が上がります。
まず、クローズアップがようやく詳しく規定されます。
クローズアップとは、言語学的、精神分析的批評が言うように、
部分対象がポイントではなく、
ドゥルーズによれば、時空座標から対象を抽象することがポイントになります。
クローズアップによって時空座標から脱領土化されれば、
それが何であろうと「顔」になる、というわけです。

このように時空座標から引き離された「顔」に表現されるものが
質や力という情動affect(「感情affection」でないことに注意です)であり、
感情イメージそのものとされ、
これに対して、こうした情動が時空間のなかで現働化され、
実際の人物に具現化されると、
それはすでに行動イメージであるとされます。

このあたりの議論はパースの概念を用いて整理されていきますが、
基本的には、とりわけ『意味の論理学』で展開された、
出来事の理論の構造(表現と表現されるもの、現働化と可能的なもの、非人称性)を
そのまま情動に当てはめている印象です
(情動を出来事と実際に同一視できるかは大きな疑問ではありますが)。

第三節後半は、
このようにふつうの顔の機能(個体化、社会化、コミュニケーション)を失ってしまった、
情動そのものとしての顔の例を、
主にベルイマンの作品に見ていくことになります。
ベルイマンの作品もユーチューブでいろいろ見れますが
(著作権的に怪しげですが…)、
テクストでも参照されている『仮面/ペルソナ』を挙げておきます。
この作品はまさに顔をもとにしたペルソナが崩壊していく映画です。
感情イメージの臨界点とされている「恐怖」が
なんとなく感じられるのではないでしょうか。

第三節の最後は、カフカを参照しながら、テクノロジーを二つの系列に分け、
ヴェンダースの作品に亡霊としての情動を見ていくことになりますが、
今回はそこまで行けますでしょうか。

以上です。今回は少し詳しく要約を書いてみましたので、
読解のお供にしていただければ幸いです。


(以下、2月13日の追記です。エリスさんによる当日の会の振り返りです)

前回は161ページから177ページの18行目までの範囲を扱いました。

特に時間をかけた箇所は、

-163頁 エイゼンシュタインの強度的セリーの〈分割的(ディヴィデュエル)〉なものとは
何を指すのか、「分人」(le dividuel)とはどのような関係があるのか。

-165頁 ゲーテの色彩論
(ニュートンが行ったように客観的な色のスペクトルを分析するのではなく、
色彩自体を相互依存的かつ偶然なものとして捉える。
陰影はただの暗闇ではない→169頁 「陰影とはつねに帰結である」)
について復習。

-175頁 情動が「非人称的」であり、
「個体化された事物状態から区別されるもの」である一方で、
「特異」で、「他の諸情動とともに形成する特異な組み合わせ
もしくは特異な接続に入ることができる」とはどういうことか。
メルロ=ポンティの「理念(l’idée))」と通じるのではないか。

また、「情動」に先立つなにか、
(いかなる時空間から生成したものではないという意味で)
純粋な可能性の領域としての「情動」は存在しないのだろうか。

- 上の点に関連して、
ドゥルーズの前期と後期における「潜在的なものの領域」の捉え方の変化
(乙部さんがわかりやすく解説)
などだったと思います。