2018年3月21日水曜日

『シネマ』読書会 第14回

読書会のご案内です。

日時:3月27日(火曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲と担当: 第7章「感情イメージ—力、質、任意空間」第三節
197–208頁 谷口
208–216頁 大久保

今回は、第7章第三節が主な読解対象になります。
ただ、今回の範囲では「任意空間」の概念が詳しく展開されるので、
最初に第二節を簡単に振り返り「任意空間」の規定を確認してから、
第三節の読解に入りたいと思います。

第7章第三節では、まず、この「任意空間」を構築する技法として、
ドイツ表現主義と「叙情的抽象」が参照されます。
この二つは、第6章でも顔のクローズアップを行なう流派として
分析されていました。

ドイツ表現主義は、光と闇の対立、争いによって、
空間の個別性を失わせ空間を潜在化させます。
参照されている作家としては、
たとえばすでに何度も参照されているムルナウがいますが、
その作品『吸血鬼ノスフェラトゥ』の予告編はこちら

これに対して、叙情的抽象と呼ばれる技法は、光と闇の対立ではなく、
光と闇の交替や二者択一によって特徴づけられます。
この技法には主にスタンバーグ、ブレッソン、ドライヤーが分類されています。
ドゥルーズ自身が認めるように、
かなり多様な作家がここに分類されてるといえるでしょう。
最初に参照されているジャック・ターナーの『キャット・ピープル』の
プールのシーンがこちら

興味深いことに、最初は光と闇の交替や二者択一が問題となりますが、
途中から、映画のプロット中の登場人物の行動が問題となり(「精神の二者択一」)、
むしろこれが叙情的抽象の中心的問題として論じられることになります。
さらにそこに、賭けや信仰を通した選択という哲学的議論が重ねられていきます。

議論として入り組んでいて、
しかもさまざまな映画のストーリーが参照されているため、
かなり難解になっています。
会のなかで一緒に読みながら少しでも解きほぐすことができればと思います。

第三節後半は、色彩による任意空間の構築が問題となります。
何もかも吸収してしまう色彩が色彩イメージであると特徴づけられ、
主に参照されるのが
アニェス・ヴェルダやヴィンセント・ミネリ、アントニオーニです。
参照されているヴェルダの『幸福』の予告編がこちら
ミネリの『黙示録の四騎士』の断片がこちら

アントニオーニの場合、色彩イメージは、たんに吸収するだけでなく、
空間を空虚にする機能を担うと特徴づけられます。
参照されている『赤い砂漠』の予告編がこちら

第三節の最後の部分では、多くの戦後映画が参照され、
断片化しただけでなく不定形になった任意空間が増殖したとされます。
その際、これまで描かれてきた、
知覚から感情を経て行動へと至る感覚–運動系が不調をきたし、
純粋な光学的–音声的状況が映画に描かれることになったとされます。
このあたりの議論は下巻を少し先取りしています。

参照されているのは、イタリアのネオ・リアリズム、フランスのヌーベルバーグ、
ニュー・ジャーマン・シネマ、アメリカン・ニューシネマで、
有名な作品も多く挙げられているので、ここでは触れません。
注目すべきは、実験映画として参照されている
マイケル・スノウでしょうか。
『中央地帯』は短い作品ですので、簡単に見ることができると思います。
『波長』も全編見ることができます。

こんなところでしょうか。
次回扱う範囲は一節分しかありませんが、かなり濃い内容が含まれています。
議論しながら読み解いていくことにしましょう。


(以下、読書会後の4月4日の追記です。)

前回の会で議論になった点を簡単に振り返っておくと、

・感情イメージの「発生的エレメント」と呼ばれる「任意空間」の位置づけ
(守屋さんによる第二節の復習レジュメがありました)。

・「叙情的抽象」と呼ばれる作家たちにおいて、
白と黒の交替(alternance)と精神の二者択一(alternative)は
どのように連関しているのか、そもそも連関しているのか。

・精神の二者択一の箇所での、賭けや信仰の議論の内実
(今回最も頭を悩ませた問題でした)や、
他の著作との関係
(たとえば『哲学とは何か』における、世界の存在への信仰のテーマ)。

・色彩イメージの真の特徴とされる、「吸収する」機能とは
どのようなものか。他の特徴とどのように異なるのか。