2018年5月23日水曜日

『シネマ』読書会 第16回

次回の読書会のご案内です。

日時:5月29日(火曜日)19時-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第8章「情動から行動へ—欲動イメージ」第二・三節
担当: 上田

会の冒頭では、守屋さんから、
感情イメージと欲動イメージと行動イメージの区別について
簡単にご報告頂く予定です。
そこでの議論で各イメージについて共通理解を作れればと思います。

今回は、第8章の第二・三節を読みます。
第一節で欲動イメージの道具立てが大体出揃ったところで、
今回はさまざま作家について、こうした道具立てを使いながら
細かい異同が指摘されていくことになります。
今回の範囲は出てくる作家が多く、したがって参照される作品も多いので、
実際に作品にあたりながら議論を追うのがなかなか大変になりそうです。
少しでも見たことのある作品がある場合は、
議論の際に補足いただけると助かります。

第二節は、主にルイス・ブニュエルの作品が取り上げられます。
シュトロハイムと異なって、身体の欲動だけでなく
心(âme)の欲動も発見したとされるブニュエルは、
自然主義の作品に特徴的な劣化=堕落(dégradation)を表現するにあたって、
シュトロハイムのようにエントロピーの増大というかたちを取らず、
永遠回帰やサイクルのかたちを取るとされます。
さらにこれによって、ブニュエルは精神的な救済の問いを
反復として提起できたとされます。
レイモン・ルーセルが参照されているのも興味深いところですが、
ブニュエル自身の作品で参照されているものとしては、
たとえば『皆殺しの天使』があります。
わかりやすい予告編がこちら


第三節では、まず、欲動イメージを描く自然主義に近づきながらも
そうならなかった作家たちが、何人か挙げられます
(ヴィスコンティ、ルノワール、サミュエル・フラー、キング・ヴィダー)。
そして、特にニコラス・レイが取り上げられ、
初期や後期においては叙情的抽象(第7章を参照してください)に
分類される作風でありながら、
中期において自然主義に接近していることが指摘されます。
自然主義に特徴的な、行動として発現することのない圧縮された暴力が
表現されたシーンとして挙がっているのが、
たとえば『暗黒街の女』のこちらのダンス・シーン


第三節後半は、自然主義の第三の偉大な作家として、
ジョセフ・ロージーが取り上げられます。
第一節で挙げられた欲動イメージのさまざまな特徴が、
ロージーの作品のなかに見いだされながら、
同時にシュトロハイムやブニュエルとの差異も指摘されていきます。
特に大きな特徴とされるのが、
行動(action)に入る前の行為=現働態(act)としての暴力
(フランシス・ベーコンやジャン・ジュネの名も挙げられています)や、
自己への跳ね返りとしての劣化=堕落などです。
詳しくは読書会のなかで見ていくことにしましょう。

ロージーについては数多くの作品が参照されていて、
ちょっとお手上げという感じですが、
欲動イメージや自然主義の雰囲気がわかりやすく伝わってくるものとして、
『エヴァの匂い』の予告編がこちら

こんなところでしょうか。
挙げられている作品数が多いため消化不良気味になりそうですが、
話の大筋だけでも見失わないようにがんばっていきましょう。


(以下、上田さんによる読書会の振り返りです。6月5日追記)

前回の振り返りですが、
初めに守谷さんから『感情イメージのイデアリスムについて』と題して、
感情イメージと情動という概念の位置づけを検討する発表をしていただきました。
ベルクソンからの引用や手書きの図、ゴッホの絵画などまで交えた
守谷さんの解説によって、クリアな整理が進んだように思います。

その結果、
— 行動イメージの体制への現動化のプロセスにおいて捉えられると同時に、
潜在性や出来事、一次性の領域にとどまり続けるプロセス
(あるいはその顔を通した表現)においても捉えられるという情動の両義性
— 上記のうち後者の側面、すなわち表現されたものである限りでの
それ自体として考察される情動こそが厳密な意味での感情イメージであるという規定

が明確になりました。

一方、
— ベルクソンの「イマージュ」は常に現動的なものという位置づけをされていた。
これに対しドゥルーズの感情イメージが潜在的なものまで含んでいるとすれば、
ドゥルーズにおいて「イメージ」とはつまるところ何なのか
— 結局、なぜ感情イメージでは潜在的なものがそのまま表現されうるのか
— ここでの「表現」という言葉は何なのか

といった(ドゥルーズの潜在性概念そのものの難解さにかかわる…)
問いがあぶり出されたと思います。

次に、第8章第2節からこの章の終わりまでを検討しました。
入手困難な作品が多く、日本で『シネマ』を読むことの難しさを
考えずにはいられませんでしたが、
一方で守谷さんのタブレットをお借りして
ブニュエルの『皆殺しの天使』の結末をその場で鑑賞し、
救済としての反復といった記述の理解が進められた点では、
現代にこの本を読めることの強さをも感じられた会でした。

挙がった論点としては、

— 『皆殺しの天使』の結末が確かに良き反復めいてるにしても、
最後の革命の光景や羊たちの映像はどう理解すればよいのか
(論点というより困惑、ドゥルーズもこの点は問いを開いたままにしている)
— ブニュエルの「舞台」という新たな記号は何を指しているのか、
それはルノワールの「舞台」(p.236)と関係しているのか
(下巻で再び取り上げられる?)
— ニコラス・レイについて語られているような自然主義と叙情的抽象は
どのような関係なのか
(「悪の選択」と「悪の「ためのpour」選択」という、
p.203でもp.239でも登場する区別や、
「善なる人間は必然的に、悪なる人間がたどりつくまさにその地点で
始まるとでも言えそうである」(p.203)という記述をふまえ、
「真の選択が不可能なまま欲動によって劣化=堕落していく自然主義から、
その行き着いた先で真の選択を行い、暴力を克服し、静謐を獲得する叙情的抽象へ」、
というストーリーが暗に描かれているのではないかという仮説が立ったが、
十分には検討できなかった)
— これと連動し改めて、pp.200-206において展開される
(ドゥルーズの哲学の中では異様ともいえる)
「選択」の議論をどう理解すればよいのか

などでしょうか。長めの振り返りとなってしまい恐縮ですが、
補足があればぜひお願いいたします。

(以下、上田さんからの振り返りを受けて、大久保からの補足です)

一点補足すると、「表現(expression)」の概念は、
会のなかでも指摘したように、
『スピノザと表現の問題』や『意味の論理学』で大きく取り扱われる、
中期ドゥルーズの主要概念です。

簡単にまとめてしまえば、
命題などの「表現」によって「表現されるもの(exprimé)」が、
「意味(sens)=出来事」です。
この「意味=出来事」の例として『不思議の国のアリス』のなかのチェシャ猫の笑い
(身体は消えても残る笑い)を
ドゥルーズがたびたび挙げていることからもわかるように、
重要なのは、この「意味=出来事」は理念的レベルに存在するものだという点です。
そして『シネマ』ではこの「意味=出来事」とほぼ等値のものとして
「情動」が提示されています。
以前の会でも指摘したように、
ある意味最も身体的とも言える情動を、
果たして理念的な出来事と同類のものとして見なすことができるのか、
大きな疑問が残りますが、
ともかくドゥルーズはそのように見なしているわけです。
このあたりは前回の守屋さんの提起とも重なる問題かもしれませんね。