2018年8月17日金曜日

『シネマ』読書会 第19回

遅くなりましたが、次回の読書会のご案内です。

日時:8月22日(火曜日)19時-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第9章「行動イメージ—大形式」第二節途中から(266頁〜)
担当: 大久保

前回で第9章第二節をとりあえず読み切り、
行動イメージの大形式の5つの法則を見ましたが、
レジュメは第二の法則のところ(邦訳266頁)までしかなかったので、
今回はそこからになります。
最低限第三節まで読み切り、
できれば第10章の第一節に入りたいと思います。

第二節では、行動イメージの大形式(S–A–S')の5つの技法
(環境の有機的構造、収束交替モンタージュ、「禁じられたモンタージュ」、
二元性の入れ子、シチュエーションと行動との大きな隔たり)が描かれます。
久しぶりにモンタージュを中心とした技法が取り上げられるので、
映画を見ておけば比較的わかりやすいのではないかと思います。
映画では、フリッツ・ラングの『M』が特権的な参照対象なので、
ぜひ見ておくことをおすすめします。
英語字幕付きでしたらこちら

ちなみにフリッツ・ラングはこの夏
渋谷のシネマ・ヴェーラで特集上映をしていたのですが、
なんと今日が最終日ですね…。

第三節では、行動イメージの大形式の延長上にある映画として、
アクターズ・スタジオの映画やエリア・カザンの映画が取り上げられます。
ここでは、シチュエーションに登場人物が浸透されていく植物的な極と、
この浸透された人物が突発的に行動を起こす(アクティングアウト)動物的な極が
設定され、この二極の連鎖で映画が解読されていきます。
アクターズスタジオの規則などもこの二極から説明されていくことになります。
映画としては、まず、アーサー・ペンの『フォー・フレンズ』が参照されていますが、
予告編らしきものがこちら
残念ながら本のなかで言及されているシーンはここには含まれてなさそうです。

エリア・カザンについては、『ベビィドール』の予告編がこちら
「幼い若妻の植物的な存在」はここからもわかりますね。
『アメリカ アメリカ』のカザン自身による紹介画像らしきものがこちら
そのラストシーンがこちら

第10章では行動イメージの小形式が扱われます。
大形式のS–A–Sを反転した、A–S–A'が小形式で、
行動がなんらかのシチュエーションをあかるみに出す形式とされます。
つまり、行動がひとつの指標となり、そこから推論によって
シチュエーションが読み取られるという構造です。
主にコメディがここに分類されていくようですが、
最初に重要な映画として参照されているのが、
チャップリンの『巴里の女性』です。
その部分的な抜粋がこちら
ドゥルーズの最初の分析はこの動画のシーンを指しているようです。

次回の範囲についてはこんなところでしょうか。

ちなみに、福尾匠さんの
『眼がスクリーンになるとき—ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』—』
出版されましたね。
僕はまだパラパラ見た程度ですが、
『シネマ』全体の構造をつかむには良さそうな本です。
次回はこの本にも触れられればと思います。


(以下、読書会後の振り返りです 追記2018/08/25)

覚えているかぎりで、簡単に前回の議論を振り返っておきますと、

まず、乙部さんから、9章の二節で言われる「法則(loi)」は
どういう意味だろうかという疑問が出されました。

これはおそらく誰もが感じる疑問だと思いますが、
僕からは、これはおそらく構造の「法則」という意味ぐらいのことで、
規範性などは含まれないのではないかと指摘しておきました。
ここまで読んできた感じでは、
運動イメージの各章は、まず各イメージの構造を描き、
そのあとで、そのイメージの発生を問うという叙述形式に
なっているのではないかと思います
(きちんと検証したわけではありませんが)。
福尾匠さんの本を踏まえると、おそらくそうした発生の源泉として、
時間イメージが第二巻で措定されていくという流れになるのではないでしょうか。

また、9章第三節の終わりで論じられる「内的ファクター」が、
感情イメージや欲動イメージとどう異なるのかといったことも
議論になりました。
実際、各章で取り上げられる映画作家が重なる場合もあり、
厳密に分類するのは難しいのではという結論になったように思います。

上田さんからは、9章第二節で言われる、行動の前の「大きな隔たり」が、
ベルクソンの知覚–運動系内における「隔たり」と、重なっているのではないか
という指摘がありました。
これは確かにその通りで、原語が同じ(écart)ことからしても、
ドゥルーズが意識しているのはまちがいないと思います。
したがって、むしろ「大きな」という規定が重要になってくるのかもしれません。

こんなところでしょうか。