2018年11月21日水曜日

『シネマ』読書会 第22回

読書会のご案内です。

日時:11月28日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲:
第10章「行動イメージ—小形式」第三節 
第11章「フィギュール、あるいは諸形式の変換」第一節・第二節(?)
担当: 守屋

次回は第10章第三節を復習するところから始めたいと思います。
前回は、守屋さんのおかげで、
参照されているチャップリンやキートンの映画の場面をかなり見ることができました。
ただ、その分テキストの検討にあまり時間をかけられなかったので、
次回はより突っ込んだ議論ができればと思っています。
おそらく、チャップリン作品における言説の役割の分析(邦訳302頁あたり)や、
キートンとチャップリンの差異などが問題になると思いますが、
このあたりは発表担当である守屋さんに主導してもらって
論点を整理していくことにしましょう。

第11章「フィギュール、あるいは諸形式の変換」では、
前回も書いたように、大形式と小形式のあいだの変換が問題となります。
第一節では、二つの形式がたんに行動の形式であるだけでなく、
映画をどう撮るかという「構想』(conception)の二つのタイプでもあるとされ、
プラトンのイデアになぞらえられます。
そして、エイゼンシュテインの理論を参照しながら、
ソビエトの映画作家の作品のなかでどのように両形式の転換が行われているか、
詳しく論じられます。
前回も書きましたが、この第一節はかなり内容が濃く、論点が多いので、
じっくり読み進められればと思います。
特に、以前から会で問題になっていた、シチュエーションと行動の差異については、
ここでより深い議論ができるのではないかと思います。

第二節は、ヘルツォークの映画が行動イメージの極端な例として分析されるようですが、
次回はそこまで行けるかどうか…。
最初に参照されている『アギーレ』の予告編がこちら
予告編だけでもかなり強烈ですが、果たしてドゥルーズがこれをどう料理するのか、
楽しみです。