2019年7月22日月曜日

『シネマ』読書会 第29回

直前のお知らせになりますが、読書会のご案内です。

日時:7月24日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:『シネマ2』(宇野邦一他訳、法政大学出版局、2006年)
範囲と担当:
第2章「イメージと記号の再検討」
第一節 エリス
第二・三節 大久保

今回は第二章を読みます。
ほとんど映画が参照されることのない、かなり理論的な章になります。
これまで挙げられていた疑問点のいくつかは、この章で解消されそうです。

第一節では、映画の記号学が、言語をモデルとすべきではないことが主張されます。
言表とその対象といったモデルでは映画は分析できない、というわけです。

映画は、あくまでも運動イメージを素材とし、
この運動イメージは、「全体」(ベルクソン的全体です)と
個々の対象とに向かう両面をもつとともに、
「間隙」のイメージをも要素とする点が特徴とされます。

第二節では、これまでパースにならって練り上げられてきた
映画の記号論(一次性・二次性・三次性など)が再び取り上げられ、
ベルクソンの哲学を参照しながらより根底的に規定され直します。

3つのイメージ(感情イメージ、行動イメージ、関係イメージ)は、
事実的に与えられているのではなく、知覚イメージから導き出されること、
知覚イメージから発生することが示されます。
すなわち、ベルクソンにおいて、生物のようなひとつのイメージが、
刺激の受容とそれへの反応のあいだの「隔たり」に位置したように、
映画のイメージにおいても、「間隙」のイメージが、知覚イメージとして、
そのほかのイメージの発生源として、いわば零次性として機能すると言われます。
その上で、これまでの記号の分類が、この零次性から改めて規定され直します。

第三節では、こうした議論をふまえて、
いよいよ時間イメージの詳しい規定が語られることになりますが、
今回は果たしてそこまで行けるでしょうか。

いずれにせよ、かなり難しい範囲ですので、疑問点を出し合いつつ、
読むことにしましょう。

2019年6月24日月曜日

『シネマ』読書会 第28回

直前のお知らせになりますが、読書会のご案内です。

日時:6月26日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:『シネマ2』(宇野邦一他訳、法政大学出版局、2006年)
範囲と担当: 第1章「運動イメージを超えて」第二・三節(17頁–?) 上田

今回は、小津安二郎の分析に捧げられた第二節と、
感覚-運動図式の紋切り型を越えて
真のイメージを獲得するための技法を素描する第三節を読みます。
第二巻の主要な問題がはじめて問われる、重要な箇所になります。

第二節では、小津に対して「音記号と光記号の発明者」という最大限の賛辞が送られ、
どのようにして純粋な光学的-音声的イメージが作り出されているのか分析されます。

ドゥルーズによれば、小津においてはありふれた生活が、
切り詰められた手法で映し出されることで、
イメージの純粋な光学的・音声的側面が強調されることになります
(イメージの唯物性とでも言えそうです)。
さらに、『晩春』の終わりに現れる壺のイメージを特権的な例として、
時間イメージが語られます。
すなわち、時間のなかの変化を表現する、不動の形態としてのイメージです。

第三節では、まず、純粋な光学的・音声的イメージが、
感覚-運動図式に回収されない何か耐え難いものを表し、
これによって紋切り型の向こうにある真なるイメージを垣間見させると語られます。

このあたりは、第二巻全体の予告的な意味合いもあって、
かなり駆け足で語られているので、
ドゥルーズのロジックを明確に切り出すのは難しそうですが、
議論しながら大まかな枠組みだけでも共有したいところです。

2019年5月14日火曜日

『シネマ』読書会 第27回

直前のお知らせになりますが、読書会のご案内です。

日時:5月15日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:『シネマ2』(宇野邦一他訳、法政大学出版局、2006年)
範囲と担当: 第1章「運動イメージを超えて」第一・二節(7頁?–?)上田

今回からいよいよ『シネマ』第二巻の読解に本格的に入ります。

第1章第一節は、第1巻の最終章から引き続き、
イタリアのネオ・レアリズモの分析に主にあてられます。
バザンなどの先行研究を踏まえつつ、ネオ・レアリズモの特徴が、
純粋な光学的・音声的イメージの出現にあるとされます。
感覚–運動の回路が失調し、登場人物が一種の観客になる事態です。

ここでは記号も新たなものとなり、光記号と音記号が問題となります。
そして、この新たな記号の観点からは、
ネオ・レアリズモに見出されるさまざまな対立
(主観的と客観的、ありふれたものと限界的状況等々)が相対的なものにすぎず、
こうした対立項が互いに識別不可能なものになるとされます。

第一節最後の三分の一ほどは、ヌーヴェル・ヴァーグ(ゴダール、リヴェット)や、
ブレッソンなどフランスの映画作家が、同様の観点から分析されます。

第二節は、小津映画の分析にほぼ捧げられます。
基本的にはネオ・レアリズモと同じような特徴が小津にも見出されていきますが、
最終的に、静物のイメージの分析から、
第2巻のテーマでもある時間イメージが取り出されていきます。

2019年4月12日金曜日

『シネマ』読書会 第26回

直前のお知らせになりますが、読書会のご案内です。

日時:4月17日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:
ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
『シネマ2』
(宇野邦一他訳、法政大学出版局、2006年)
第1巻 第12章「行動イメージの危機」第二・三節(358–) 大久保
第2巻 第1章「運動イメージを超えて」第一節 上田

今回は第12章の第二節途中から、最低限第一巻を読み終わり、
可能ならば第2巻のとば口に入れればと思っています。
今年度はいよいよ第2巻の読解に進みます。

*** 第2巻に興味のある方は、今回からご参加いただくと、
第2巻の理解が深まると思います。
奮ってのご参加お待ちしています ***

前回のヒッチコックの分析を通して、
ドゥルーズのいう「行動イメージの危機」がどのようなものか少し見えてきました。
つまり、それは、知覚から行動へという回路が失調し、
ただ見るしかない純粋な光学的・音声的イメージが現れてくる事態です。
ヒッチコック『裏窓』の主人公がそのひとつの象徴として扱われていました。

今回は、まず第二節で、行動イメージの危機のもうひとつの例として
非ハリウッド系の戦後アメリカ映画が取り上げられ、
この行動イメージの危機の具体的特徴が挙げられていきます。

第三節では、行動イメージの危機の同じ特徴が、
戦後のイタリア映画(ネオ・レアリズモ)と
フランス映画(ヌーヴェル・ヴァーグ)のなかに読み取られ、
さらにそこから思考のイメージへの展開が予感されて、第一巻が締めくられます。

第2巻第1章については、時間の関係上、
上田さんから軽くイントロダクションをしてもらう程度で終わりになりそうです。

2019年3月18日月曜日

『シネマ』読書会 第25回

直前のお知らせで恐縮ですが、次回の読書会のご案内です。

日時:3月20日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)

範囲: 第12章「行動イメージの危機」第一・二節(344–)
担当: 大久保

今回は第12章の第一節の途中から、
おそらく第二節を読み終わるあたりまで進むことになるかと思います。

前回の終わりに、新しく導入された「三次性」の概念を、
マルクス兄弟の例に当てはめるとどうなるかについて簡単に見ましたが、
今回はその復習から始めます。
マルクス兄弟については、前回のお知らせと同じく、
『マルクス一番乗り』の予告編のリンクを貼っておきます。

次に、第一節後半では、三次性や「心的イメージ」を映画に導入することで
これまでの他のイメージを完成させた作家として、
ヒッチコックが特権的に取り上げられます。
ヒッチコックが心的イメージを作り出すために用いる手法が詳しく分析されていきます。

しかし同時に、ヒッチコックは、心的イメージを導入することで、
それまでの映画の完成を目指しながら、
実際には、知覚と運動の回路を断絶してしまう光学的イメージに
すでに接近していたとも語られます。

ヒッチコックについてはさまざまな映画が取り上げられています。
どれを見ようか悩む方は、ヒッチコックの有名作品をまとめた
こちらなどいかがでしょうか。

次の第二節ではまず、行動イメージが、ヒッチコックを待つまでもなく
実は最初から危機に晒されていたことが明らかにされます。
そして、非ハリウッド系の戦後アメリカ映画にについて、
この行動イメージの危機の具体的特徴が挙げられていきます。

ロバート・アルトマンやカサヴェテス、スコセッシなど、
ここでも多数の作品が参照されています。
特にアルトマンの作品が多く参照されています。
そのなかで、『ナッシュビル』の予告編がこちら

第12章の第三節は第二巻への助走という面があるので、
来月に第二巻の冒頭と一緒に読むほうがよいかもしれません。

2019年2月24日日曜日

『シネマ』読書会 第24回 再び

読書会のお知らせです。
前回のお知らせから間が空きました。

日時:2月27日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲:
範囲: 第11章「フィギュール、あるいは諸形式の変換」第三節(328頁–)
第12章「行動イメージの危機」第一節(341頁–)
担当: 大久保

先月は流会となったので、以前お知らせしたのと同じ範囲になります。

第11章第三節では、黒澤明と溝口健二が、
それぞれ大形式と小形式の変形として論じられます。
黒澤明の場合は、登場人物を行動へと突き動かす「問い」が、
中心的な問題として扱われます。
溝口健二の場合は、異質な断片的空間が連結され、
最終的には宇宙線や逃走線へとつながっていくと論じられます
(溝口の典型的なテーマである男女の逃避行を思い出すべきでしょう)。
黒澤も溝口も有名な作品ばかりが参照されていますので、
この機会に見ておくとよいかと。

第一巻の最後を飾る第12章のうち、今回は第一節を読みます。
まず、パースにしたがって「三次性」の概念が導入されます。
ドゥルーズのいつもの圧縮された記述でなかなか難しいところですが、
なんとか共通理解を得られればと思います。

ドゥルーズはこの三次性で「心的イメージ」という新たなイメージを説明していきます。
この三次性や心的イメージの例として、まず、マルクス兄弟が参照されます。
参照されている『マルクス一番乗り』の予告編らしきものがこちら
本文中で参照されるシーンも出てきます。

そして、第一節の後半三分の二では、ヒッチコックの映画が分析されます。
三次性が物事同士の「関係」を扱うものであるため、
推理という「関係」の解釈を中心に進むヒッチコックの映画が大きく扱われるのは
当然といえば当然でしょう。
ここではたくさんの作品が参照されていますが、
冒頭で大きく扱われているのは、『ロープ』です。その予告編がこちら