2017年2月24日金曜日

『シネマ』読書会 第1回

読書会のお知らせです。

日時:2月28日(火曜日) 18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
発表: 谷口惇「ドゥルーズ『シネマ』の文脈と前提」
範囲:序文 1-2頁
   第一章「運動に関する諸テーゼ: 第一のベルクソン注釈」 3-22頁
担当:大久保

今回からいよいよ『シネマ』の読解に入ります。
実は前回、『哲学とは何か』の最後の部分のレジュメを
作り終えることができなかったのですが、
これまでのレジュメすべてを近々公開するときに
合わせて作ることにしたいと思います。
どうぞご了承下さい。

今回は、『シネマ』本文の読解に入る前に、
前回から参加された谷口さんから、
『シネマ』という作品の歴史的文脈などをお話しいただきます。
映画批評をされている谷口さんに映画業界側からは
『シネマ』という本がどのように見えているのか語っていただくことで
(実際ドゥルーズは映画研究の文献をかなり参照しています)、
どうしても哲学に偏りがちな僕の読解を補ってもらおうと思います。

『シネマ』本体の読解は、まず序文で本書の目論見を確認します。
短いですが、本書がどのような立場で書かれたのかを
明確に示す、充実したテクストです。

次に第一章では、主にベルクソン『創造的進化』を読解しながら、
運動に関するベルクソンの三つのテーゼが検討されます。
一見、映画とはあまり関係なさそうに見える問題ですが、
本書全体を貫く運動イメージと時間イメージの概念が
分節化される箇所であり、非常に重要でしょう。
詳しくは読書会で見ていきますが、以下に概要を示しておきます。

第一のテーゼは、運動が通過した空間を再構成しても
運動にはならないというものです。
ベルクソンはこれを「映画的錯覚」と呼びますが、
ドゥルーズは、ベルクソンの最初期の著作『物質と記憶』を
参照することで、ベルクソンの「持続」概念が
映画の運動イメージを先取っていたことを示し、
ベルクソンを単純に映画の敵対者とする解釈を退けます。

第二のテーゼでは、運動を再構成する二つの仕方、
いわば古代の弁証法と近代の弁証法とが取り上げられます。
このうち近代的な弁証法に着目することでドゥルーズは、
運動の各瞬間に新しいものが生産されていることを
ベルクソンは見ていたと語ります。

第三のテーゼは、運動は持続=〈全体〉における変化の表現であると
いうもので(たとえば、砂糖を水のなかでかき回す運動は、
水から砂糖水への質的変化の表現でもある)、
ここから最終的に時間イメージが導き出されることになります。

僕自身も完全に理解できているわけではないので、
このまとめが誤りを含んでいる可能性もありますが、
これを足がかりに読書会で検討していきましょう。