2018年9月23日日曜日

『シネマ』読書会 第20回

直前になりますが、次回の読書会のご案内です。

日時:9月26日(火曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第10章「行動イメージ—小形式」279頁–
担当: 大久保

前回、第9章を読み切ったので、今回は第10章からになります。

第10章は、すでに何度か紹介しているように、
行動イメージの小形式が扱われます。
大形式がS–A–S'だったのに対し、それを反転したA–S–A'が小形式になります。
行動がなんらかのシチュエーションを明らかにする形式とされます。

まず第一節の前半では、この小形式が省略的=楕円的表象として整理されます。
つまり、省略(ellipse)によってひとつのシチュエーションが推理されると同時に、
中心を二つ持つ楕円(ellipse)のように、
二つのシチュエーションが同時に示唆されるのが、
小形式である、というわけです。

この節では、以前も紹介したチャップリン『巴里の女性』と、
ルビッチの映画が主に参照されます。
『巴里の女性』のリンクをもう一度貼っておきます。
ルビッチについては、この節でも参照されている
『生きるべきか死ぬべきか』のワンシーンがここで見れます。

ルビッチについては、学部のときに蓮實重彦文体をマネて
レポートを出したこともあるぐらい好きな作家です。
未見の方はぜひ。

第一節の後半では、
小形式がたんに低予算の映画にかぎらない形式であることが指摘された上で、
小形式のジャンル論が展開されます。

第二節では、ウエスタンを題材にしながら、大形式との対比がなされます。
前半では主にホークスを参照しながら、
大形式にあった有機的組織が小形式では失われていることが指摘されます。
ホークスはいろいろとユーチューブにあがっていますが、
とりあえずバコール様が出てくるこちら

第二節後半はサム・ペキンパーが主に参照されるようですが、
今回はそこまでいけますかどうか。


(以下、会の振り返りです。9月30日追記)

議論で問題とされたのは、
まず、守屋さんから、小形式で「行動」と呼ばれているものは、
具体的にはほとんど行動と呼べないもの
(女性の顔に映る電車の影など)ばかりではないか、
という指摘がありました。

たしかに、10章第一節ではドゥルーズは「行動」とはほとんど言わず、
「指標記号」ということばを主に使っています。
「大形式」と「小形式」という対比にまとめるためにやや無理している感がありますね。
なぜドゥルーズがこの対立項を使っているのか、
またこの二つの形式のあいだの関係はどのようなものかといったことは、
これから次章にかけて明らかになっていくようなので、
この問題についてはそこで改めて議論できればと思います。

また、これも守屋さんからだったと思いますが、
第二節で使われている位相幾何学的な表現が、
どこまで正確なものなのかも問題とされました。

これはドゥルーズを読むときにつねにつきまとう問題ですね。
あえてドゥルーズ側に立つならば、
最低限、『差異と反復』あたりで同様の表現を使っているときに
意味されていることをふまえて、
この『シネマ』のなかの同様の表現も読むべきだとは思います
(もちろん、果たして『差異と反復』での数学的表現も
どこまで正確なのかも問われるとは思いますが)。

目立った論点はそのあたりでしょうか。