2018年10月22日月曜日

『シネマ』読書会 第21回

読書会のご案内です。

日時:10月24日(水曜日)18時30分-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲と担当:
第10章「行動イメージ—小形式」第二節(291–295頁〕 大久保
第10章第三節と第11章「フィギュール、あるいは諸形式の変換」(295–頁) 守屋

今回は、第10章の中盤あたりから読みはじめ、最低限この章は読み終え、
できれば第11章の第一節を少しでも読みたいと思います。

前回の範囲で小形式の特徴が記述され、
小形式を用いるジャンルが挙げられていきました。

第二節前半で、大形式の変形(デフォルマシオン)として、
ウェスタンでのホークスが分析されましたが、
今回扱う第二節後半では、小形式のウェスタンとして
ネオ・ウェスタンの作品が扱われていきます。

前章ではフォードのウェスタン作品が大形式の範例として分析されていたわけですが、
今回はそれとの対比でサム・ペキンパーやアンソニー・マンの作品が分析されます。
ペキンパーの作品では『ワイルド・パンチ』の一部がこちら
ドゥルーズの言うような、もはや大形式の二元性が成立しない、
敵味方の区別が不明な銃撃戦の場面です。
アーサー・ペンの『小さな巨人』の予告編がこちら

第三節では、小形式の典型的ジャンルとしてスラップスティックが扱われ、
まずチャップリンの作品が分析されます。
チャップリンには、行動の小さな差異が二つの状況のあいだの大きな距離を
示唆するという小形式の典型的手法が見られるとされます。
また、『独裁者』の有名な最後の演説シーンを例として、
演説というフィギュールの効果も分析されます。
これに対して、
ふつうスラップスティックの典型と思われるバスター・キートンの作品は、
むしろスラップスティックの内容を大形式で成立させたものとされます。

興味深いのは、チャップリンとキートンのそれぞれに異なる社会主義的ヴィジョンが
読み取られる(共産主義的チャップリンとアナーキズム的キートン)ことですが、
このあたりは読書会で議論することにしましょう。
チャップリンとキートンはあまりに有名でしょうから、作品へのリンクは省略します。

第11章「フィギュール、あるいは諸形式の変換」では、
大形式と小形式のあいだの変換が問題となります。

第一節では、まず、多くの作家において両形式が混在していることが指摘され、
この二つの形式がたんに行動の形式であるだけでなく、
映画をどう撮るかという「構想』(conception)の二つのタイプでもあるとされます。

具体的には、第三章で取り上げられた、エイゼンシュテインをはじめとする
ソビエトの映画作家の作品を改めて分析しながら、
両形式の転換が詳しく論じられます。
この第一節はかなり内容が濃く、論点が多いので、
ゆっくり解きほぐしながら読む必要がありそうです。
エイゼンシュテインのさまざまな作品が本節では参照されていますが、
とりあえず有名なところで『戦艦ポチョムキン』を。

こんなところでしょうか。

(以下、会のあとの振り返りです。10月26日追記)

まず、大形式と小形式における行動の位置づけの違いが問題になりました。
また、これは今回守屋さんも指摘していたことですが、
行動イメージにおける「行動」が、
必ずしも通常の意味での行動ではないようなものまで指していること、
それゆえS(シチュエーション)とA(行動)の区分も明確でないことなどが
議論されたように思います。
次の第11章では大形式と小形式の転換が問題になり、
SとAの差異が重要になりそうなので、
この問題についてはそこで改めて議論できればと思います。

次に、第10章第二節末尾から現れる「宇宙線」(ligne d'univers)という概念について、
物理学用語としての側面
(「世界線」。これについては上田さんからクリアーな補足解説がありました)も
ふまえながら、その規定が議論されました。
訳注が指摘するようなベルクソンとの関連や、
ドゥルーズの他の著作での「宇宙」の位置づけ、また『シネマ』第二巻との関係など、
かなり射程の大きい問題のような気もするので、
引き続き注意しておく必要がある概念かもしれません。

第10章第三節に関しては、まず道具と機械の違いが何か、
守屋さんから問題提起されました。
これについては、目的と手段の連関に置かれた「道具」と、
本来のそうした連関から逸脱して別のものと接続される「機械」という
『アンチ・オイディプス』での議論で理解できるのではないかと僕から返答しました。

また、チャップリン『独裁者』の分析で大きく取り扱われる「言説」の機能が
何かということも守屋さんから問題提起されました。
正直なところ、
今回の範囲の記述だけでは「言説」がどういうものか理解するのが難しく、
第二巻での議論を待つべきではないかという結論に落ち着いたのではないかと思います。
今振り返ってみても、ドゥルーズの他の著作やガタリとの共著でされている
言語についての議論とうまく接続できるようなことが特に言われていない気がします。
今後の展開を待つとしましょう。