2018年7月13日金曜日

『シネマ』読書会 第18回

遅くなりましたが、次回の読書会のご案内です。

日時:7月17日(火曜日)19時-21時
場所: 都内某所
テクスト:ジル・ドゥルーズ『シネマ1』
(財津理・齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)
範囲: 第9章「行動イメージ—大形式」第一節途中から
担当: 大久保

前回は邦訳257頁(原書p. 203)途中の段落までレジュメがありましたので、
今回はその続きからです。第二節を読み切れればよいかなと思います。

第9章は、行動イメージと、特にそのうち大形式(S–A–S')がテーマになっています
(小形式(A–S–A')は第10章のテーマになります)。
本書はベルクソンの知覚モデルにしたがって、
知覚–感情–行動の三区分でイメージを分類してきたわけですが、
第9章からいよいよその最後の区分である「行動」に入っていきます。

感情の力や質が、感情イメージの場合のように、顔やクローズアップに表現されたり
断片的なイメージ(任意空間)で純粋に表現されたりするのではなく、
また、欲動イメージのように、環境のなかに完全には現働化されずに
残余が残り続けるのでもなく、
むしろ、しっかりと規定された時空のなかで現働化され、
行動として具現化されるのが、行動イメージになります。

そして、行動イメージのうち、大形式の特徴は、
感情の質や力を現働化する環境
(〈包括者Englobant〉や「共記号synsigne」とも呼ばれています)と、
その環境のなかで具現化された勢力forceによって人物が突き動かされて取る行動との
二極が設定され、
最初の環境が、ある行動によって、新しい環境に変わり、
新しい生存様式を作り出す(S–A–S')というところにあります。
また、環境と行動の対立、あるいは、ウエスタンの映画のように、
人物と人物の対立など、さまざまな二元性が大形式の特徴として指摘され、
パースの用語を用いて「二項表現binôme」と呼ばれています。

前回の範囲では、大形式の概略が規定された上で、いくつかのジャンル
(ドキュメンタリー、社会心理的作品、フィルム・ノワール、ウエスタン)のなかに
それが確認されていきました。

今回の範囲では、まず、引き続きウエスタンの分析が続けられます。
取り扱われている分量から言っても、
ウエスタンがこの大形式の重要な範例のひとつであるのはまちがいないでしょう。
ドゥルーズは、ウエスタンが叙事詩的なものではなく、
(広い意味で)倫理的な形式であり、
環境–行動–新しい環境とスパイラル状に変化するさまを描くものであることを
強調します。
作品としてはジョン・フォードの『馬上の二人』や『リバティ・バランスを射った男』が参照されています。
『リバティ・バランスを射った男』については断片的に見ることができます。
たとえば、こちら

そして、フォードの映画において
アメリカン・ドリームが果たす役割の重要さを指摘した上で、
ドゥルーズは、アメリカ映画全体がたえずアメリカ国民の誕生を描いてきたこと
(たとえば、言うまでもなく、グリフィス『國民の創生』)、
その際に歴史映画が大きなジャンルを形成してきたことも指摘します。
第一節の最後では、アメリカ映画に表れている歴史観を分析するために、
ニーチェ(『反時代的考察』第二論文)が参照されますが
(正直、あまりニーチェに忠実ではありません…)、
参照されている作家(グリフィスやセシル・B・デミル)からすれば、
第3章「モンタージュ」での彼らについての分析も同時に見ておく必要がありそうです。
実際、たとえば、二元性の特徴は第3章でも指摘されていたと思います。

第9章第二節では、行動イメージ大形式の5つの法則が描かれていきます
(環境の有機的構造、収束交替モンタージュ、「禁じられたモンタージュ」、
二元性の入れ子、シチュエーションと行動との大きな隔たり)。
この範囲は比較的わかりやすく、映画を見なくてもなんとか理解できるかと思います。
ただ、フリッツ・ラングの『M』は各法則のところで大きく取り上げられているので
見ておくほうがよいかもしれません。
英語字幕付きでしたらこちら

第三節では、行動主義の映画としてアクターズ・スタジオの映画や
エリア・カザンの映画が取り上げられます。
今回はこの節の冒頭を読むぐらいで時間切れになりそうです。

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